ホラー小説です。グロテスクな描写や倫理的に不適切な内容を大量に含みます。お子様の閲覧には適しません。【PG12】
わたしは空ちゃんが大嫌いだった。空ちゃんは不潔でだらしなくて嘘つきだったから。
空ちゃんが転校してきた最初の日、先生は空ちゃんをわたしの隣の席に座らせて、わたしに「仲良くしてあげてね」と言った。わたしは学級委員だったから。
空ちゃんはすごく嬉しそうにわたしを見て、歯の抜けた口で、人懐こく、にかっと笑った。馴れ馴れしくてムカついた。先生にああ言われたからって、もうわたしと仲良しになったつもりでいるの? わたしはあんなみっともない子と、仲良くなんかしたくない。あんなレベルの低い子と仲間だなんて思われたら、わたしまでみんなにバカにされる。
でも、わたしは学級委員だから、ちゃんと空ちゃんの面倒を見た。分からないことは教えてあげたし、忘れたものは貸してあげた。空ちゃんは毎日忘れ物ばかりしていて、勉強もぜんぜん分からなくて、とても世話が焼けた。先生は、空ちゃんは転校が多かったから勉強が遅れているんだと言ったけど、空ちゃんが勉強が出来ないのは、転校のせいじゃなくて怠け者だからだと思う。転校したって、自分でちゃんと予習復習をしていれば、勉強が分からなくなったりはしないはずだ。自分でぜんぜん勉強しないで何でも人に聞いて済まそうとする空ちゃんは、ずるいと思う。
空ちゃんは、ほとんどいつも同じ薄汚ない空色のワンピースを着ていて、ぼさぼさの長い髪の毛はフケだらけで、べたべたして臭かった。みそっ歯のせいか舌足らずなしゃべり方も幼稚っぽくてバカみたいで嫌だったし、わたしのことを仲良しの友だちが呼ぶのを真似して勝手に『みゆちゃん』と呼ぶのも、ずうずうしくて嫌だった。不潔で不細工でぜんぜん可愛くないくせに、人懐こい笑顔だけは妙に無邪気そうで、大人たちから『天使のよう』なんて言われたりするのが余計に気に障った。
そして、空ちゃんは、嘘つきだった。空ちゃんは、町外れの立派なお屋敷が自分の家だとか、お母さんは有名な女優だとか、お父さんは外国の王子様だとか、誰にでもすぐバレるような嘘ばかり次々とついた。小さな町のことだから、空ちゃんが商店街近くのボロアパートに住んでいてお父さんはいないということは、あっという間にみんなに知れ渡っていたのに。しかも、空ちゃんのつく嘘は日によってころころ内容が変わって、みんなに『前に言ったことと違う』と言われても、絶対にそれを認めなかった。
ある日、昼休みの校庭で、空ちゃんが、居ないはずのお父さんのことをあんまり得意そうに自慢するから、誰かが「空ちゃんのお父さんは死んだんでしょ?」と言うと、空ちゃんは、「違うもん、死んでないもん!」と怒り出した。
「お父さんは、死んだんじゃないの。お空の国に帰っただけなの。お母さんがそう言ったもん。お父さんはね、本当はお空の国の人で、お空の国からお母さんのところに来たんだって。お空の国の人だから、あたしに『空』って名前をつけたんだって。だけど、あたしが生まれてすぐ、お空の国に帰っちゃったんだって」
「お空の国って、天国のことでしょ? だったら、やっぱり、お父さんは死んだってことじゃないの?」
「違うもん、お父さんはお空の国で生きてるもん。お父さんは、お空の国で、お城みたいな立派なおうちに住んでて、あたしは時々、そこに遊びに行くの。お父さんのお空のおうちにはあたしのお部屋もあって、おもちゃやお菓子がいっぱいあるの。お空のおうちにはね、空を飛んでゆくの。あたし、本当は空が飛べるの。あたしのお母さんは本当のお母さんじゃなくて、本当のお母さんはお空の国の女王様で、だからあたしは、お空の国のお姫様なの。お空の国の人にはみんな背中に羽があって、あたしもあるけど普段は隠してるの」
あまりにも幼稚な嘘にみんなが呆れて、口々に「空ちゃんの嘘つき」「嘘はいけないんだよ」と注意したけど、空ちゃんは、嘘じゃないと言い張って聞かなかった。誰かが「ほんとなら羽を見せてみろよ!」と叫ぶと、他のみんなも「そうだよ、証拠を見せてよ!」「証拠、証拠!」と騒ぎ出した。空ちゃんは、唇をぎゅっとへの字に曲げると、突然みんなに背を向けて校庭の隅のニワトリ小屋まで駆けて行き、落ちていた白い羽を一本拾って戻ってきた。黄ばんでぼさぼさになって乾いた糞みたいなものがこびりついた、きっとバイキンだらけの、わたしだったらとても触る気になれないような不潔な羽を、空ちゃんは得意そうに掲げてみせた。
みんな、「それはニワトリの羽じゃないか!」と笑った。誰かが「それで飛べるもんなら飛んでみろよ!」と叫ぶと、空ちゃんは、飛べるわけがないのに、羽を持った手をパタパタさせて、ぴょんぴょん跳ねて飛ぶ振りをした。
そのへんてこりんな姿をみて、みんなは笑ったけど、わたしは笑わなかった。真剣な顔で助走をつけては何度もジャンプする空ちゃんの必死な姿を見ていたら、本当に自分があの羽で空を飛べると信じているんじゃないかという気がしてきて、なんだか薄気味悪くなったから。見ているうちに、こっちまで、一瞬、空ちゃんが本当に飛ぶんじゃないかという気がしてしまって、わたしはちょっと怖くなった。空ちゃんを見てると、わたしまで変になりそうだ。空なんか、飛べるわけないのに。
「うーそつき、うーそつき」
誰かの一声をきっかけに、男子たちが節をつけていっせいに囃し立てはじめると、空ちゃんは、「嘘じゃないもん!」と、泣き出してしまった。
放課後、なぜかわたしが先生に呼び出された。空ちゃんを泣かせたのはわたしじゃないのに。わたしは空ちゃんのことを笑ってないし、大きな声で囃し立てて泣かせたのは男子たちで、わたしは一緒にいただけなのに。
それに、わたしたちは空ちゃんに意地悪をしたわけじゃない。空ちゃんが嘘をつくから、嘘はいけないと注意しただけ。
そう言うと、先生は困ったような顔をした。
「空ちゃんはね、みんなと仲良くなりたくて、つい、でまかせを言ってしまうんじゃないかしら。きっと、大きなお家に住んでるとかお母さんが有名人だとか言えば、みんなが感心して仲良くしてくれるかもしれないと思って、それで作り話をしてしまうのよ」
もしそうだとしたら、空ちゃんはバカだ。みんな、嘘をつく子となんか、なおさら仲良くしたくないに決まってるのに。
「ねえ、美由紀ちゃん、空ちゃんを許してあげてね。空ちゃんはね、可哀想なのよ。転校してばかりで、なかなかお友だちが出来なくて、きっと寂しいのよ」
そんなの、ヘンだ。可哀想な子は、嘘をついてもいいの? 嘘をつくのは、いけないことのはず。わたしは学級委員だから、いけないことをしている子を見たら、ちゃんと注意する。それは正しいことのはず。
前に、男子たちが掃除の時間にふざけて騒いでいたら、わたしはまじめに掃除していたのに、先生は、学級委員なのに男子がふざけているのを止めなかったと言って、わたしのことも叱った。人が悪いことをするのを見ていて止めないのは自分も悪いことをするのと同じだと言って。わたしは何度も注意したけど、男子が言うことを聞かなかっただけなのに。
それなのに先生は、今度は、空ちゃんが嘘をついても許せと言う。悪いことをしている子がいるのに、注意をするなと言う。そんなの、訳が分からない。大人は勝手だ。
黙って唇を引き結ぶわたしを見て、先生は、ますます困ったような顔をした。
「先生思うんだけど、もしかすると空ちゃんは、嘘をついているつもりじゃないのかもしれないわ。美由紀ちゃんは、小さい頃に、自分の作り話を自分で信じてしまったことはない? 何かとっても悲しいこと、嫌なことがあった時、これは本当のことじゃないんだと思いたくなったりしない? 嫌なことを忘れてしまって無かったことにしておきたいと思ったことはない?」
「ありません」と答えると、先生は悲しそうに目を伏せた。
「そう……。先生は、そういう気持ち、ちょっと分かるような気がするのよ」
だとしたら、先生は、大人のくせに、なんて心が弱いんだろう。そんなふうに目を逸らしていたって悲しいことや嫌なことが消えてなくなるわけじゃないくらい、子どものわたしにだって分かるのに。
「ね、美由紀ちゃん、空ちゃんはね、あなたのことが大好きなのよ。みゆちゃんは可愛くて頭が良くてしっかりしてて優しいって、みゆちゃんが親切にしてくれて嬉しいって、毎日毎日、言ってるのよ。だから、仲良くしてあげてね」
空ちゃんはいつも先生に、そんなふうにいろいろ話しているの? 先生は空ちゃんだけの先生じゃないのに、そんなことも分かりもしないで、忙しい先生に毎日べたべたとまとわりついて迷惑かけて。先生は、どうして空ちゃんのことばかりそんなに気にかけるの? 先生は空ちゃんをひいきしてる。
わたしが可愛くて勉強が出来るのは、自分でがんばってそういうふうにしているからだ。成績が良いのは毎日予習復習をしているからだし、忘れ物をしないのは毎晩ちゃんとランドセルの中を点検しているからだ。服も自分で可愛い組み合わせを考えて着て、髪も何度も練習して自分で上手く結べるようになった。そうやって自分でちゃんとがんばっているから、クラスの中でも可愛くて頭が良くて人気のある子たちのグループに入る権利があるんだ。なのに、そういう努力を何もしていない空ちゃんをわたしたちのグループに入れてあげなきゃいけないなんて、不公平だ。そんなことしたら、グループのレベルが下がる。わたしたちが人気者グループの一員という地位を保つためにどんなに努力しているか、そういうことを先生たちは何も知らないから平気で『誰それを仲間に入れてやれ』なんて言うけど、わたしたちにだっていろいろ事情があるんだから、何も分かっていない大人に口を出して欲しくない。
でも、先生が、「空ちゃんは転校したばかりで、まだいろいろ分からないんだから、大変でしょうけど、あなたが面倒を見てあげてね。よろしくね」と言うから、しかたなく、「はい」と答えた。わたしは学級委員だから、クラスに世話の焼ける子がいたら面倒を見なくちゃならない。わたしは良い子だから、いつでも良いことをする。嫌いな子にでも、ちゃんと親切にする。
次の日、空ちゃんは、何もなかったみたいに、にかにか笑って寄ってきて、わたしは、それからも毎日、空ちゃんの面倒を見た。空ちゃんは相変わらず世話が焼けて、わたしはうんざりした。
空ちゃんは、臭くて汚いと言われて、男子たちにいじめられだした。休み時間になると空ちゃんを取り囲んで、髪の毛が臭いとか服が汚いと大きな声で騒ぎながら鼻をつまむふりをしたり、髪の毛をひっぱったり。
いくら空ちゃんが不潔なのが本当でも、いじめは悪いことだから、わたしは注意して止めさせた。
でも、空ちゃんも、臭いとか汚いと言われて泣くくらいなら、ちゃんと清潔にすればいいのに。もしお母さんがお仕事で帰りが遅いんだとしても、そんなの、空ちゃんが不潔にしていていい理由にはならないと思う。もう四年生なんだから、お母さんがいなくたってお風呂くらい自分で沸かして入れるはずだし、服だって、自分で洗濯機で洗えるはずだ。わたしだったら、そうする。
だいたい、男子たちは、よくあんな汚い髪の毛に触る気になる。わたしなんか、隣に座っているだけで、フケがこっちまで飛んできそうで嫌なのに。空ちゃんは、髪の毛をちゃんと洗ったり梳かしたり出来ないなら、あんなふうに長く伸ばしていないで短く切るか、せめてゴムで結べばいいのに。そうすれば、少しは臭くないし、フケも落ちないだろう。
そう思ったから、空ちゃんに、「髪の毛、結んどいたほうがいいよ」と言って、予備に持っていた髪ゴムをあげた。どうせ三年生の時に買った子どもっぽいやつで、新しいのを買ってからは、ずっと使ってなかったから。大きなプラスチックのボンボンなんて、わたしにはもう幼稚すぎるけど、空ちゃんにはそれくらいがきっとお似合いだ。
空ちゃんは、ものすごく喜んだ。どうせあまり使ってないものをあげただけなのに、そんなに喜ばれると、自分がすごく良いことをしたみたいで、悪い気はしなかった。わたしも空ちゃんの隣に座っていてフケや臭いがこっちまで来ると嫌だから、空ちゃんが髪を結んでいてくれたほうが、きっと少しは助かるし。
そうしたら、次の日、空ちゃんは、髪の毛をとっても変な風に結んできて、わたしに向かってにかっと笑って、嬉しそうに「みゆちゃんとおんなじ」と言った。ものすごくムカついた。そんなんで、わたしの髪型を真似したつもりでいるの? 左右の結び目の高さがぜんぜん違って、あちこちから髪の毛がはみ出してぼさぼさしてて、髪の毛の分け目にはフケがべったりとこびりついてて、すごく汚らしくてだらしなくてみっともないのに。髪の毛を高い位置で左右二つに結ぶのは、とても難しい。わたしは何度も練習して、自分で上手く結べるようになった。それなのに、空ちゃんは、あんなへんてこな髪型で、わたしと同じなつもりなんだ。わたしは、空ちゃんなんかに真似をされたくない。同じだなんて思われたくない。
翌日から、わたしは髪型を変えた。
それでも、それからも、男子たちが空ちゃんを囃し立てたりするたびに、わたしは注意して追い払った。そのせいで男子たちからうっとおしがられて、わたしまで一緒に嫌な目で見られた。だから、夏休みに入って、やっと空ちゃんのお守りから解放された時には、本当にほっとした。
それなのに、夏休みのある日、わたしが友だちと歩いていると、空ちゃんとばったり会ってしまった。空ちゃんは、わたしを見ると、それは嬉しそうに、にかっと笑って、誰も一緒に来ていいなんて言わなかったのに、勝手に後をついてきた。
その日、わたしたちは、駅前のファンシーショップに行くところだった。可愛い文具やアクセサリーがいっぱいのその店は、わたしたちにとって、ちょっと特別な場所だった。中学生のお姉さんたちも買い物に来るその店に入り浸ることは、わたしたちおしゃれで大人っぽい女の子のステイタスの証だったから。その、わたしたちの聖域に、空ちゃんなんかに入り込まれたくなかった。ダサくて幼稚な空ちゃんは、あの店にふさわしくない。
わたしたちは、目と目で相談しあって、駅とは反対のほうに歩き出した。空ちゃんに、あの店について来られないように。
空ちゃんは、みんな無視して相手にしないのに、どこまでも後をついてきた。「ついて来ないで」と言っても、聞こえてないみたいにへらへらと笑って、二メートルくらい後ろをついてくる。まるで汚い野良犬みたい。
わたしたちは意地になってどんどん歩き続け、とうとう市街地を抜けて、山の上の小さなダム湖にまで来てしまった。さすがの空ちゃんも不思議に思ったらしく、無邪気に、「ねえ、どこに行くの?」と訊ねてきた。真夏の日射しの中を歩き続け、疲れて不機嫌になったわたしたちは、誰も返事をしなかった。
空ちゃんは一人で勝手にしゃべりだした。
「ねえ、みんな、行くとこ決まってないなら、これからお空のおうちに遊びに来ない? 涼しいし、冷たいジュースもあるよ。ゲームがいっぱいあるから、何でも貸してあげるよ。みんなにも魔法で羽をつけてあげるから、そしたら飛んでいけるよ。ちゃんと飛べるように、あたしが飛び方、教えてあげるから。ほんとだよ、簡単だよ……」
その、しつこく追いすがる舌足らずな声と、際限ない作り話のあまりの幼稚さ、空気を読まない自分勝手なおしゃべりが、ぎりぎりまで高まっていたわたしたちの苛立ちに火をつけた。
あの時、なぜ、あの場所であんなことが起こってしまったのか分らない。わたしたちには、誓って、空ちゃんに危害を加えるつもりはなかった。空ちゃんを危険な目にあわせようとしてわざとあの場所に誘い出したりしたわけじゃなかった。ただ、空ちゃんがいつものように空を飛べると嘘をつき、いつものようにみんながその虚言を咎めた、ちょうどその時、ダム湖を遥か下に見下ろす小さな赤い橋にたまたま差し掛かっていたというだけ。
橋の上でみんなに嘘つきと責め立てられた空ちゃんは、「嘘じゃないもん、ほんとに飛べるもん!」と叫んで、止めるまもなく赤い欄干に攀じ登り、いきなり宙に舞ったのだ。
わたしたちの目の前で、翼のように両手を広げた空ちゃんの小さな身体が、一瞬、青空に浮かんだ。
直後に、湖面で水音が上がった。わたしたちは悲鳴を上げて欄干から下を覗き込んだけれど、そこにはもう、空ちゃんの姿は無かった。水面で溺れかかってバシャバシャもがいている姿を予想したのに、そこにあったのは、輪を描いて広がる水の波紋だけ。
夏の日盛りの橋の上、照りつける日射しがふと陰り、蝉時雨が糾弾のように降り注いだ。
わたしたちに何が出来ただろう。わたしたちは、みな、ほんの十歳かそこらの子どもだった。周囲に他の人影も民家もなく、あの頃はまだ、今のように子どもが携帯を持ち歩いていたりはしなかった。わたしたちに何が出来ただろう。――わたしたちは、ただ、恐くなってその場から逃げ出したのだ。
息を切らせて逃げ帰った町外れで、わたしたちは足を止め、わたしはみんなに、今日のことは誰にも言うなと告げた。
わたしたちは何も悪いことをしなかった。わたしたちは誰も空ちゃんに飛び降りろとか死ねとか言っていない。これまでだって、男子たちがしていたみたいに空ちゃんを小突いたりしていじめたことは一度もない。わたしたちは、ただ、嘘を注意しただけ。嘘をつくのはいけないことだと教えてあげて、止めさせようとしただけ。それは正しいことのはず。空ちゃんのためにもなることのはず。それなのに――何も悪いことをしていないのに、今日のことを大人に言ったら、きっと、わたしたちが叱られる。
「誰かに話したら、仲間外れだからね」
そう宣告すると、みんな青い顔で頷いた。わたしたちが空ちゃんと一緒にいたのは、たぶん、誰も見ていない。見ていたとしても、その後でわたしたちが一緒にダム湖に行った事は誰も知らないから、道で会ったけどそのまま別れたと言えば大丈夫――。
翌日、行方不明の空ちゃんの捜索で、町は大騒ぎになった。捜索が続く間、わたしは夜毎、怖い夢を見た。蒼褪めたずぶ濡れの空ちゃんが髪から水を滴らせて湖から這い上がってきて、「みゆちゃんがやりました」といいつける夢を。
空ちゃん、出てこないで。このまま、みつからないで。空ちゃんがみつかったら、きっと、あの日の事がバレる。わたしは良い子でいられなくなる――。
わたしは毎晩、布団の中で震えて祈った。
けれど結局、空ちゃんは発見されないまま、わたしたちが疑われることも一切無いまま、しばらくして、空ちゃんのお母さんは、ひっそりとどこかに引っ越していった。
その頃、大人たちの噂話で、空ちゃんのお母さんの帰りが遅かったのは仕事のためではなく男の人と会っていたかららしいと知った。あの日も、日付が変ってから帰宅して、翌朝遅くなってはじめて空ちゃんがいないのに気がついたらしいと。空ちゃんは、毎晩のように遅くまで放っておかれて、一人でカップ麺や菓子パンを食べていたんだと。
だからといって空ちゃんが不潔にしていたり嘘をついていい理由になるとは思わなかったけれど、先生が空ちゃんを可哀想だといった意味と、空ちゃんが作り話の中でお母さんのことを『本当のお母さんじゃない』と言った気持ちは、少し分かった気がした。
それからわたしたちは、空ちゃんについては一切口にしないまま普通の日々を送り、やがてわたしは、空ちゃんのことを、自分の空想の産物だと思うようになっていった。
空ちゃんは本当に、空の国から来た天使だったのかもしれない。そういえば、あの日、夏の光の中で宙に浮かんだ空ちゃんの背中に、一瞬、薄汚れた白い翼が見えたような気がする。あの日の湖面に一面に映っていた夏の青空――あれは空ちゃんの『お空の国』で、本当は天使だった空ちゃんは、そこに向かって、背中の翼でまっすぐに羽ばたいていったんだ。湖に落ちたのではなく、空に帰っていったんだ。
もしかしたら、わたしは、その光景を本当にこの目で見たのじゃなかったか。天使の姿に戻った空ちゃんが背中の翼を羽ばたかせ、湖面の青空に向かって飛び去ってゆく光景を。
白い翼は、少し黄ばんで汚れてはいたけれど、夏の光に誇らかに輝いていた。舞い散った細かい羽毛が白い花びらのように空ちゃんの周りを取り巻いて、一心に羽ばたく空ちゃんは、夢のように綺麗だった。湖面に向かって投げ込まれた、空色のリボンの白い花束のよう。リボンの尾を引いて花束が落ちてゆくのを見るように、わたしは、故郷に向かってみるみる遠ざかってゆく空ちゃんを、なすすべもなく立ち尽くして見送ったのではなかったか――。
そう思うと、その光景が確かに自分の目に焼きついているような気がした。
だけど、そんなわけがない。天使なんて、本当にいるわけがないのだから。だったら、あれは何だったんだろう。わたしが見た、あの光景は。見るはずのないものを見た――だったら、それは、きっと夢だったんだ。あるいは、空想の光景か。
あの頃、わたしは子どもだった。子どもはよく、本当のことと自分の空想をごっちゃにしてしまうものだ。見てもいないものを見たと思い込んだり、夢と現実の区別がつかなくなったり、空想のお友達を持ったり。
だったら、きっと、その『空ちゃん』という子は、わたしの空想のお友達だったんだ。自分のクラスにある日突然天使が転校してきて、また空に帰っていったなんて、いかにも子どもが考えそうな他愛のない作り話だ。『空から来た空ちゃん』だなんて、名前まであまりに安直すぎて子どもの思いつきっぽいし、その子がいつも空色のワンピースを着ていたなんていうのも、出来すぎていて嘘くさい。そう、空ちゃんなんて子は、最初からいなかったんだ。何もかも、子どもだったわたしの罪のない空想ごっこだったんだ――。
春の遠足が終わってから転校してきて秋の運動会を待たずに去ってしまった空ちゃんは、学校行事の写真にも一切写っていなかったから、そんな風に自分に思い込ませるのはたやすかった。
やがて大人になったわたしたちは、散り散りに町を出て行った。そうして、わたしは、空ちゃんのことを忘れて暮らしてきた。――郷里の母からの電話で、あのダム湖で子どもの古い白骨死体が発見されたという噂話を聞くまでは。
子どもの骨は、湖底に沈んで立ち枯れた木の枝にひっかかっていたのだという。
「可哀想に、木の枝に引っかかってしまって浮かび上がれなかったのね。苦しかったでしょうね、寒かったでしょうね、ずっと一人ぽっちで寂しかったでしょうね」という母の言葉が遠く聞こえ、心の奥に封印されてきた空ちゃんに纏わる記憶のすべてが一気に甦った。
その夜、夢を見た。
白くふやけて膨張した天使の腐乱死体が、暗緑色に濁った水の中で、木に引っかかって揺らいでいる。ぼろぼろになって水流に靡く空色のワンピースの背中には、擦り切れた羽毛を僅かに残す折れた翼が、半ば千切れて、ぶら下がっている。魚につつかれて破れた皮膚の、ふやけたところに小さな巻貝が群がって、眼球が喰い荒らされた後の眼窩の縁からイトミミズのような赤い蟲が蠢きはみだして涙のように一筋零れ落ち、天使は空ろな口腔を開け、わたしに向かって、にかっと笑いかけるのだ。昏い口腔の中には、白茶けた小蟹が――。襲い掛かるような腐臭に息が詰る。
目が覚めても、腐臭は消えなかった。一人暮らしの高層マンションの部屋に、腐臭が満ちている。ああ、バスルームだ。蓋をしたバスタブの中に腐臭を放つ湖水が淀み、天使の腐乱死体が手足を不自然に捻じ曲げて浮かんでいる。蓋を開けたら、きっと、水面をびっしりと覆う不潔な羽毛と長い髪の毛の間から、水に晒されて色が抜けた生白い顔が、わたしを見上げて笑うのだ――。
バスルームから、時おり、ちゃぷん、と、微かな水音がする。バスタブの縁から、抜け落ちた黒髪と羽毛が混じった腐った水が流れ落ちて床に溜まってゆくのが脳裏に見える。バスルームの前を通るのが怖くて、わたしは部屋から出られない。もうずっと、奥の寝室のドアを締め切って、窓際のベッドで頭から布団を被って震えている。今、バスルームで、かさり、ぽたり、と音がした。バスタブの蓋の隙間から小さな蟹がかさこそと這い出して、床に転がり落ちたのだ。蟹の後を追うように、白く膨れ上がった血の気のない指が蓋の隙間から伸びて、のろのろとあたりを探る。ゆっくりと蓋が持ち上がる。腐った天使が、水を滴らせてバスタブから生まれ出る。ずるり、ぴとり、べちゃり……小さな濡れた足音が廊下を近づいてくる。この寝室のドアの向こうに、溺れて腐った空ちゃんが、空ちゃんが、空ちゃんが……!
ドアの下の隙間から、腐臭を放つ水がちょろちょろと流れ込む。ドアが軋む。腐臭がわたしを包む。ああ、ドアが、開く――
逃げ道は一方向だけ。気がつくとベランダの柵を乗り越えて、わたしの身体は宙に舞っていた。あの日の空ちゃんのように。
青空に浮かんだまま、わたしの時が止まった。目の前に、腐った天使が浮かんでいる。ぶよぶよと膨れて溶け崩れた顔に空ろな笑みを浮かべ、あどけなく小首を傾げて手を差し出す。
――やっとあそびにきてくれたね ずっとまってたんだよ だいすきなみゆちゃんにいちばんにきてほしかったの これからほかのみんなもむかえにいこうね――
差し伸べられた腕から腐肉がずるりと剥け落ちてわたしの顔に滴り、死んだ子どものつめたい指が手首にからみついた。
(終)
(『覆面作家企画3(冬)』(お題:『空』)参加作品を加筆修正したものです)
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掲載サイト:カノープス通信
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