真理に媚びず 虚偽を蔑まず 知識に諂わず 無知を侮らず


  サッカーの基礎

サッカーとはどういう競技か。
よりおおくのゴールをきめたチームが勝つ。
というにすぎず、それ以外は附則にすぎない。

肝に銘じてほしい。

             *
十数年ちびっこたちとサッカーをたのしんできた。
そのなかで、仮説をえた。
実感である。
全日本(いいかたは古いけれど代表といういいかたがすきではないので)の試合を観ていて気がついた。
サッカーをはじめたころからのゴールをきめる回数が圧倒的にすくないのではあるまいか。
ゆえにJリーグその他、邦人が出場する試合でのゴール絶対数がすくないのではなかろうか、ということである。

核心からいう。
サッカーをはじめたころからやるべきことは、
ちびっこたちにゴールゴールゴールのシャワーを浴びせてあげることである。
なぜならば、ゴールがひとをそだてる。
その可能性をもつがゆえ。(2016.10.31.)

             *
では、どうするか。
ゴールキーパーをおかない。
ゴールキーパーをおくと、ゴールキーパーがいなくてもきまらないゴールがいっそうきまらなくなる。
サッカーはゴール。
それで完結の競技なのである。
ゴールのまえに半円のエリアをもうけ、そこは攻撃側以外ははいれなくする。
もちろんオフサイドなぞは設定しない。
あるちびっこが敵陣ゴールまえでまっていても、それはそれでひとつのアイディアである。
いいアイディアだね、といってあげてもよいだろう。

5点きまるまでつづける。
10点でもいいだろう。
得点者をひとりづつきめて、全員が得点者になるようにする。
あとは自由。
いままでなかなか得点できなかったちびっこが1度得点をきめる。
すると再度きめたくなる。
これこそがゴールをきめるという本質。
これがサッカー。
そのときのかれらの立ち位置は攻撃者のものである。
自然とそうなるがよろしい。

あそびゆえ楽しい。
だから集中力が発揮される。

上達はしているかどうかはわからない。
けれど、なにかはわずかではあるが、かわっているはずである。

わたくしはそのようにしてゴールゴールゴールをちびっこたちに浴びせている。(2016.11.1.)

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ポジションについてはなにもいはない。
とにかくゴール、ゴール、ゴール。
どこにいてもゴールはねらえる。
キーパーはいないのだ。
それでも、かれらはポジションをおさえてくることがある。
おれはここで、おまえはここ、というふうに率先して指示をだす子がいる。
かれのまわりでおとなたちがすることを聡明なるちびっこはまねる。
が、いっさいかまわない。
わたくしは、ポジションには拘泥しない。
どこでもいい。
どこからでもゴールはきめられる。
きめる意志をもつか、否か。
サッカーの真髄はここにつきる。

1対1の場面ではパスをだすのではなく、どうしたら敵陣を突破できるか。
勝負をうながす。
攻撃者が有利ゆえ。
もしどうしてもひとりでいけないのならば、パスをしてみれば、という。
まずはひとりでいく。
そしてひとりできめる。
それが最善。
ドリブルはひとりでいく。
1対1ならば、かならず勝負することをわたくしは声をだしてなかば強制する。
味方へのパスはあくまでも次善の策にすぎない。
サッカーは組織ではなく個がきそう競技なのである。(2016.11.11.)

              *
攻撃を主眼にすえている。
が、それで、よしとはしない。
ひいてまもる、ことはしないだけである。
まもりからはいる、とおとなたちはかるがるしくいう。
それはどういうことを意味するのか。
わたくしはちびっこたちに問う。
それは先制をゆるすかんがえではあるまいか、と。

攻撃は防御なりという。
至言である。
こちらが攻撃しているときはあいては攻められない。
まして稚拙ならば、攻めに集中すべきではないか。
攻めづかれという。
なぁに、つかれにくくすればよいだけのこと。

わたくしはちびっこたちに、じゃまをしよう、とつたえている。
あいてがボールをもっているとき、
さぁ、じゃまをしよう、ボールをとってしまおう、
と檄(げき)をとばす。
ひとりでとれなければ、ふたりでいこう。
あいて陣地で、攻勢をかける。
プレッシングサッカーの実践である。
じゃまをすることにたけたちびっこたちは、あっさりとボールをうばい、ゴールへパスをくりだした。
なんどもなんどもくりだした。
わたくしがかんがえるサッカーである。(2016.11.14.)

              *
サッカーの基礎というと、まず技術をおもいうかべるだろう。
が、足はちいさいし、脚力はない。
そんなちびっこたちにインサイドキックをおしえてもできるはずはない。

力いっぱい蹴るちびっこに、力をぬいて蹴ることを意識させる。
地面からうかないように、グラウンダのゴロを蹴る。
いまはへっぽこだけれども、それは筋力がそなわっていないから。
あせらないこと、
ひととちがっていてとうぜんということ、
きにしないこと。
いまのうちに精確に蹴ることをおぼえてもらいたい。
精確に蹴る、心がまえをもつようにうながしている。

どういう蹴りかたがいちばん精確にできるか。
ちびっこに問うといい。
足をつかっていれば、どこでもいい。
かれらの得意を意識させること。
それでいい。
精確に蹴られる方法があったらをおしえてもらう。

ただし、インサイドキックの基本はおしえるべきである。
いまはできないけれども、やはりいちばん精確に蹴る方法はインサイドキックかな、と。
それと同時に、おかあさん、おとうさんにつたえることはわすれてはなるまい。
インサイドキックの基本動作をおかあさん、おとうさんにただしくつたえること。
これこそが重要であるとわたくしはかんがえる。(2016.11.18.)

              *
ボールを蹴る、とおなじくボールをうけることもサッカーの根幹である。
あいてがちかくにいなければ、雑でもよい。
あいてにうばわれない範囲にとどめればそれでよし。
あいてがどこにいるか、
ボールのうけかたはあいてとのその距離如何である。
あいてとの距離がちかくなればなるほど、精度がもとめられる。
あいてがピタッとくっついているときこそ、足に吸盤がついているかのごとく、ボールを制御しなくてはならない。
トラッピングは、ただボールのいきおいをとめるにあらず。
トラッピングは、どのような状況で最適な方向にボールを据えるか、を問うものである。
最適な方向とは、つぎの動作にむだなくつなげられる位置、そこに据えることをいう。

参考 代表チームの問題点。精確なトラップが精確なパスをうむ

面とむかう1対1の練習では、ただまえに据えるだけでよしということになる。
それでは意味がない。
つねに活きた球で、つぎの動作を仮定しながら訓練する。
うまくいったときは「よしっ」と声をあげる。
もしうまくいかなければ、理由をたしかめる。
なぜうまくいかないのかをかんがえる。
そして再度ためしてみる。
うまくいったときのコツを意識する。
その訓練をする。
それだけで練習の密度は濃くなっていく。
失敗はむしろ歓迎すべきものなのである。

ひとつのちいさな失敗を放置しない。
ちいさな失敗は理由をたしかめやすい。
理由はひとつかふたつ。
ひとは、いちどに3つの失敗をかさねることはできないのではあるまいか、とかんがえるからである。

ちいさな成功を意識することには積極的であるべきだ。
その重層が自信を構築するからである。(2016.12.07)

              *
藤子不二雄Aさんの漫画、プロゴルファー猿。
そのなかで、主人公がスーパーショットをくりだす。
漫画はスーパショッツだらけなのだろうけれど。
それはグリーンにはためくピンをめがけてうつもので、ボールは旗にからまると、ポトリとカップにおさまった。
トラッピングとはまさにこのことではなかろうか。
スポンジをおき、高いところからボールをおとす。
水をふくまないスポンジはボールを反発させる。
が、しめらせたスポンジの反発はすくない。
このイメジ。
反動をすくなくおさめる。

あいてのボールをうばうにはトラッピングのときをねらう。
ミスがおきやすい、そのときをねらう。
ミスがおきやすいからミスをしないように、なんどもなんどもくりかえす。
それを練習というにすぎない。

あえていう。
なんべんでもいう。
サッカーは単純なスポーツである。
難しくしているのは、我々である。



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