なぜ、どなるのか
映画「ルーキーズ」をみた。
主人公の高校生がまるでチンピラであった。
ニッポンはチンピラの描写はこのうえなくうまい。
身近にたくさんの例をみるからであろう。
アメリカ映画で拳銃をつかう描写に迫真が多いのと理由はおなじではなかろうか。
生徒も教師もどなってばかり。
うまくいかないとどなり、きにいらないとどなる。
そんな生徒諸君をおさえようと、教師の語気は一段と強くなる。
強気が弱気を制してばかり。
なぜ大きな声でいわねばならぬのか。
大きな声でなければ伝わらないのか。
伝えたいことって?
なぜ、どなり、どなられなければならないのか。
「スポーツ。」には、どなり、は不要である。
「スポーツ。」とは?
連想してみよう。
カラフル。
みかけはいいけれど、ちゃらちゃらしてるって感じかな。
笑顔。
楽しい。
どこか軽く、真剣さに欠ける印象はあるのだろうな。
あくまで自主的。
MLBも、NBLも、NHLも、NFLも、プレミアシップも、すべて、「スポーツ。」なのである。
「体育。」とは?
なんだろう。
白。
挨拶。
試合中はもちろん練習中は歯はみせない。
階段をうさぎとび。
練習中は水を飲まない。
合図で一斉に集合。
先輩、後輩。
連帯責任。
規律。
「スポーツ。」は競技じたいに関心がむいている。
一方、「体育。」は、競技じたいよりもその周辺に目がいく。
手続きこそ「体育。」の眼目なのか。
作中、生徒諸君の髪型がそれぞれなのはいい。
坊主頭がひとりとしていない。
作者はそこにとらわれていない。
青春映画としてはおもしろい。
ただ、
どなり、どなられる。
その描写を見慣れ、感覚が麻痺した、無反省なニッポンの風土に、嫌悪感はつのるばかりであった。
ちびっこには見せたくない。
本音である。