屹立(きつりつ)
少年の父親は地方官吏、母親は化粧品のセールスレディをしていた。
高等学校三年の始業式の日、かれの父親は他界する。
高等学校二年、夏の日のことであった。
かれは母校の図書室から無断で書籍を拝借し、それが明かるみになり、自宅謹慎に処せられた。窃盗である。
家の者には伝えないでください、病魔と闘っている父親が悲しむだけですから、と懇願した。
が、一度くだされた処分である以上、親御さんに報告しない訳にはいかない。
担任から病床の父親に報せが入った。
そのころかれは、おばあさんとの些細ないさかいがもとで一年以上も父親と口を利かなかった。大家族の家長として祖母を庇護しなければならない立場にあったのであろうか。少年の父親はおばあさんの言い分を信じた。道理は少年にあったのかもしれない。父も子も感情に支配され冷静さを失ってしまった。
少年は困った。
なんと云って釈明しようか案じた。こたえは容易にでてこない。
その日の夕方、電話がなった。
母親からであった。
学校からの報せを受けて母親がわが子の悪行を父親に伝えたとのこと。
「とうさん呼んでるよ」
という。
いまのいままで強気でいた少年もおのれの愚かさで墓穴を掘ってしまった。
反省至極の体で病院にいった。
なるようにしかならない。
少年ははらをすえた。
夕食がおわったのだろう、病棟にはたべものの匂いがした。
その個室の戸は明いていた。
うつむいて入ってくる息子をみとめると父親はいった。
「学校の本をかっぱらったんだって」
怒るどころか大笑いする。
「おまえは下手なんだよ」
といいはなつや、父親は高等学校在学時分になした悪行の数々を、わが子に聞かせるではないか。母親にすら一言も喋らなかった悪事である。
少年は、
「おまえなんぞ出ていってしまえ!」
そういわれるのを覚悟していた。
その夜のことは忘れない。
とうさんとかあさんの三人で、あんなに大笑いしたことはなかったから。
おかしくておかしくて涙がでるほどおかしくて、おもう存分に笑いながら、どこか救われたおもいで、もう悪行はするまい、悪行はしてはならない。
少年は誓う。
早朝。
少年の父親は息を引きとった。
父の遺体を実家に運ぶ途中のことであった。
ふと、少年はかなたに広がる大雪(だいせつ)の山々をみた。
雪を冠したその峰々の雄々しさに、少年は息をのむ。
それまで気にもとめたことのない凡々たる山々が屹立(きつりつ)としてみえた。
白と群青に彩られたヌプカウシの峰々を仰ぎみながら、少年は溢れ出る涙の滴を、父親の血が脈々と流れる掌でしっかと受けとめた。