イヴィツァ・オシムへの提言
イヴィツァ・オシム氏はフランス語、ドイツ語を流暢にはなすそうである。
若くしてフランスのチームへ移籍した。
現役をしりぞいてからオーストリアのチームでマネージャーをつとめた。
なるほど現地語をあやつることは成功への近道である。
かれは経験で知っている。
だのにここニッポンでのイヴィツァ・オシム氏は日本語ではなすのをはばかるようである。
日本語を流暢とはいわぬまでも、片言でもいい、はなす努力を、吶吶としてなお堂々たるところを見せるべきではあるまいか。
まさにチャレンジ。
吶吶がかれの美学に反するのであれば、別な方法を採ればよい。
とにかく、
「ニッポンノサポーターノミナサン、コンバンハ。」
だけではいけない。
日本の酒のみならず、歴史にも文化にも精通していなくてはならない。
クリント・イーストウッドのように、
「ほとんどの日本人は第2次世界大戦中に硫黄島でなにがあったのか知らない。」
といわなければならない。
代表監督を辞した時点で、すでに日本学の大家となっていなくてはならない。
ジーコにそうなるべき道を示せなかった。
だからいざというとき、ニッポンチームは機能しなかった、のかもしれぬではないか。
ジーコならわかってくれるはずであった。
ジーコならわかってくれているはずであった。
けれど、ジーコはわかっていなかった。
勝手に期待した。
責めを負うのはこちらである。
代表チームのマネージャーになった時点で、求められるべきは現地語である。
その習得への汗である。
ファンに、スタッフに、選手諸君に愛されようと努めるところにある。
ヒデ中田英寿がイタリアで、イングランドで示したように。
イヴィツァ・オシムは日本語をしゃべらなくてはならない。
日本に何年いるのか。
ファンもメディアもはっきりいうべきなのだ。
成功に近道はない、が、成績がふるわないのは日本語を理解しないからである、と。
そういう位置にわれわれは立っているのだ。