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正確という病気、清潔という病気
またイージーなほうへ流れている。
ずさんな管理、無責任体質。
そのすべての責任をJR西日本にもたせることは、ある意味、簡単なことである。
すべてはJR西日本が悪い。
そうして封をする。
所詮、自分にかかわりなければ関係ない。
関係者だけがおもしをしょっていく。
日々の生活のなかで、
たとえば電車の到着が遅れた、といって今朝、文句をいったのはだれなのか。
電車を一本遅らせただけで、会社に遅刻。
昨日、職員にくってかかったのはだれなのか。
遅刻で給料がマイナスになったのは電車が遅れたからだ、
月末ごとに、いいはるのはだれなのか。
鉄道職員のせいなのか?
なんのことはない、余裕をもたない利用者のせいではないか。
正確はひとがつくった、たかが概念である。
その概念に縛られる。
縛られたがる。
時計を24に区切ったのはだれなのか。
それをまた60に区切り、さらに60の区切りをつくる。
短針、長針で示すだけならまだしも、
秒針で、ついには液晶数字で時間を表示する。
それだけで数字には誤差を許さない。
つねに正確でなければ意味がない。
これ、すでに病気である。
正確という病気を患っていながら自覚症状がない。
清潔という病気にかかっていながら自覚症状がない。
それこそがすでに異常である。
異常は日常にのみ胚胎する。
そこに気がついていない。
イージーなほうへ流れているいじょう、またこうした惨事はまぬがれえないのではあるまいか。
そんな気がしてならない。
たとえばニッポンの鉄道ダイヤを一瞥、おおくの外国人は、われわれのまえでは異口同音に、
「素晴しい。」
という。
が、かれらがホテルに帰ってつぶやく本心は、
「クレイジー。」
われわれがとるべき道は、いったいどこがクレイジーで、なぜクレイジーか。
そこから考えるべきではなかろうか。(5.24.05)
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