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なぜジーコは海外でたたかう選手を重用するのか
ほんとうのところ、そのわけは、ジーコ本人も説明しにくいのではあるまいか。
なぜならばそれは実感であるからだ。
実感なら説明できる、というのは読者のわがままである。
実感だからこそ言葉に窮すのである。
ジーコの実感はいまや確信となっている。
著者にはそう見える。
なぜジーコは海外でたたかう選手を重用するのか。
海外のチームにはピッチ内の熾烈な競争がある。
それは至極当然である。
そこで生抜こうとあくせく。
ではここ日本にはないのだろうか。
あるかもしれぬ。
が、上級生がただ上級生である、それだけで優遇するあいもかわらぬ体質。
それを当然と無反省なままの指導者とそのとりまき。
プロとはいえその延長線上にある。
この国にあるのは、ある種のフィルターを透しての競争のごときものであり、すべては条件付の競争ごとである。
それを競争とはいわない。
それはハンディキャップ競争であり、競争にみせかけた茶番でしかない。
雰囲気ひとつとってみても窺える。
たとえば遊びを極力排したところのいったいどこにクリエーティブのはいる余地がうまれようか。
「まじめ。」であることとて、なににたいして「まじめ。」であるべきか。
その認識が欠けている。
北朝鮮戦。
先制するが、落着きがない。
チームはいわゆる国内組で構成されていた。
チームが地に足をつけ、落着きをとりもどしたのは高原直泰選手、中村俊輔選手が交代出場してからである。
はたして海外組のかれらよりも可能性を感じさせる選手がこの国のどこかにいるのだろうか。
いない。
それが実際である。(3.22.05)
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