将来が不安です
将来が不安だ。
よく聞く。
先が見えない。
先なぞ見えるものか。
あなたは神様か。
不安のない将来。
そんなもの、あるはずがない。
将来が不安だ、というのは、いわば溜息をつくのと同じ性質のものなのだろう。
空気を吸って、吐く。
普段は意識のそとで呼吸するのに、溜息をつくときにだけ、さも訳ありのふりをもって呼吸する。
それとも屁か。
ブー、もしくはブゥ、というのではなく、ブゥウゥフゥ。
屁とて、腸の状態、便の状態で音を変える。
不安の押売りがいまもなおこの国をおおっている。
梅雨時の湿気とおなじで、まとわりついて始末が悪い、とは以前、書いた。
習性なのか、いっこうに改まらない。
きっと改めたくないからなのだろう、とも書いた。
あるひとの研究では、鬱病になるひとは、ならないひとにくらべ、溜息の回数が多いという。
これは権威のあるものではないが重要なフィールドワークである。
示唆に富むとはつまりこういう発見をいう。
不安だ、先が見えない。
先など見えるはずもないのに。
見えるかのような、無反省なおもいこみはないか。
不安といったって、大小便を我慢することのほうがよっぽど苦痛じゃないか。
いま、どこに立ち、いったいどこに臨んでいるのか。
その定義、その確認こそすべきなのではあるまいか。
将来はそのつぎに見ればいい。
将来ばかり見た気になるから、足元の落し穴にはまってしまう。
溜息をつかないようにしてみよう。
溜息をつくにしても、すくなくとも息を吸う段階で、止める努力をしてみようとおもう。
意識しながら呼吸する。
自律神経失調ぎみのひとにもいいときく。(11.10.05)
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