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体育会への違和感
おとなだけでサッカーをした。
芝生のフルコートで、である。
天候には恵まれた。
風は強かったが。
ベストの環境とはいえないまでも著者にとっては最善のコンディション であった。
体力、気力とも充分であった。
が、振り返ってみて、
つまらない。
もう絶対に参加するものか。
と、おもっている。
こどもたちがつまらないというのと、似ているのではないか、とおもう。
それはただ著者が稚拙だから、という理由だけではない気がするからである。
他のひとはまがりなりにも経験者ではあった。
著者のみが初心者であった。
4人のディフェンスの左サイドをまかされた。
攻撃はするな、という。
攻撃しても意味がないらしい。
逆に、その空きを攻められる、という。
キーパーの指示に従え、という。
下手なコーチングはするな、という。
負けているときは、余計な鼓舞はするな、という。
意味がないことは、ただするな、という。
著者は、これが体育会なのではなかろうか、と考える。
体育会を経験したことのない者だから感じる違和感なのではあるまいか。
それでもその違和感を払拭しようと、指示ならぬ命令にしたがった。
が、一時、自陣でのコーナーキックの際、チームメイトの3人から3様の ポジションどりを指示された。
著者はたちまち混乱し、
「指示をひとつにしろ。」
と大声をあげた。
そのときから、あきらかに著者にたいする反応がかわった。
体育会はわが邦、独特のものであろう。
体育そのものが欧米にはないときく。
ただそれのみをもって違いをいうのは短絡かもしれない。
が、おとなのサッカーにその体質はあきらかに存在し、しかも大手をふっている。
そのことに気づかないおとなたちがいまもこどもたちを指導する。
それはこどもたちにとって不幸を意味する。
体育会のまったく息のかからないところから多くの選手が育ってくることを、
切に願う。 (9.21.04)
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