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レアル・マドリー戦、不甲斐ないJEF市原
不甲斐ないJEF市原。
レアルマドリーの選手がいかに基本に忠実であり、フットボールにおけるファンタジーというのは、基本の実践のうえにのみ体現できるものであり、いかにJEF市原のサッカーがおおざっぱで、繊細さを欠いた性質のものであるかがわかった。
たとえばパス。
無理な体勢で味方にパスをする場面があった。
届かないであろう距離の場合、レアルマドリーの選手はおおむね無理をしない。
それに対して、JEF市原の選手は届かないかもしれないけれど、えいやっ、と蹴ってしまう。
このときの判断は大胆である。
結果は当然、味方には届かず、ミスパスとなりボールは相手に渡り、逆襲をくらう。
負けっぷりがここ数試合まったく同じということは、イヴィツァ・オシムヘッドコーチのその指導力を問われてもしかたがない。
たとえば、このようなことをイヴィツァ・オシムヘッドコーチは教えているのであろうか。
フリーポジションにいれば手をあげ、声をあげてすみやかにパスを要求する。(村井慎二選手はまったくできていない)
そういうポジションにいる選手にパスを出すように、うしろから見ているキーパー、バックス陣はすみやかに指示をだす。(茶野隆行選手、斎藤大輔選手、結城耕造選手、とくに櫛野亮選手のコーチングについてのイロハのイからの質疑応答がヘッドコーチ、ゴールキーパーコーチを含めてなされているのか)
それゆえキーパーをふくめたバックス陣はまばたきもできないほど注意深く前方を見ていなくてはならないこと。
ミスパスがあれば、ここによこせと意思表示するべきじゃないか。
ここにほしいのだ、というべきこと。
そのとき、いわれた責任と、いった責任がともに派生すること。
それをおおやけにすることでのみ、その議論がやがてはチームの約束になりうるかもしれない。
ちゃんとパスをよこさないからシュートに結びつかず、結果チームは負ける、だから給料はあがらないのだ、ということを。
そこまで面倒見なくてはならないのである。
イヴィツァ・オシムヘッドコーチはJEF市原の、日本のサッカーをかいかぶっているのではあるまいか。(7.31.04)
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