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パスをするのならシュートを打て、
それができないのならゴールにパスをして
枠のなかに入れてみろ
ちぐはぐ。
アテネオリンピック、アジア最終予選、対レバノン戦の印象である。
ゴールまえで、フォワードがシュートを打って失敗する。
それとおなじ局面で、味方にパスを出そうとしてパスミスで失敗する。
ここには雲泥の差がある。
高松大樹選手はフォワードでありながら、パッサーと化した。
そのときの気持ちのもちかたが問題である。
シュートを打つよりも、味方にパスを出したほうがゴールする可能性が高い、と判断したのだろうが、それこそが決定的な間違い。
なぜその判断をくだしたのか、意識して変えていかないと、またどこかで同じことをくりかえす。
それも肝心要のところでくりかえす。
どこが問題なのか。
パスを繋ぐということは、あいだに人を介すことである。
人を介すということは、ミスの芽をふやすことでしかない。
慎重に事をすすめているつもりだろうが、実はその行為は、危険の種をまいているにすぎない。
無自覚だからまたやるし、無反省だからくりかえす。
単なる判断ミスなのである。
そこに気がつかなければいけない。
シュートには良いシュートも悪いシュートもない。
シュートはいわば句点であり、中盤の充実はシュートで終るか否かで見極めるべきである。
シュートを打ちもしないのに、
「見事な中盤でした」とはならない。
入るか入らないか、結果としてあるだけだ。
シュートはシュートしなければ入らない。
シュートを打つ。
その意志がなければ打てやしないものである。
そういった簡単なことを、みんな忘れている。
パスをするのならシュートを打てばいい。
それができないのならば、ゴールにパスをして、枠のなかにいれてみろ。(3.4.04)
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