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放り込みと思考停止
ワールドカップ1次予選対オマーン戦
アルビレックス新潟の選手名簿を見る。
好感の持てる補強である。
高さに対しての配慮が一番強く出ている。
ワールドカップ1次予選、対オマーン戦。
後半、選手の動きがとまった。
それとともに、最終ラインから前線へのロングパスが多くなった。
ボールをつなぎ組み立てていく黄金の中盤ともてはやし、注目していたにもかかわらず、その中盤を省いた放り込みを多用した。
これでも黄金の、と記者諸君は書きつづけるつもりなのであろうか。
あれは攻撃のための思考を止めたのである。
つまりチームは逃げ、それをよしとしたのである。
ただひとり、中田英寿選手だけはそれを嫌って奮闘した。
だから浮いて見えたのである。
だれかが放り込む。
すると、それはたちまち伝染し、蔓延する。
なんのことはない。
簡単だもの。
火の粉が身にふりかかったら、人はそれを払うだろう。
それが、あのロングボールの正体である。
もう一度いう。
それは責任の回避でしかない。
かれらの多くは逃げたのである。
それほどに選手たちは、攻撃のアイディアに窮したのである。
退屈な攻撃という。
たしかに、ポンポンと前線に放り込んでしまうのはそう見える。
またそう見て正しい。
また人はその攻撃について、能がないともいう。
では、問おう。
能のある攻撃とはどういうものか。
そんなものはない。
人は、ボールのあるほうへ、とにかくボールのころがるほうへ集まっていくものである。
チビッ子サッカーを見れば良い。
それは性(さが)であり、どうしようもないことなのである。
その性を巧みに利する。
それが戦術であり、その戦術を実践へ導くこと、それが練習でしかない。
放り込みを、退屈な攻撃、と侮ってはいけない。
つなぐサッカーを所望しようとも、このオプションをもつことによって、選手の思考停止に対し、すみやかに、簡潔に、対応できる唯一の攻撃なのである。
一番いけないのは、その練習を忌避するチームの多いことである。
無反省のまま。
後半の40分。
そこで繰り広げられるせめぎあいの内容を分析すれば自明であるのに。
言葉のイメージにとらわれ、判断を誤るのはアマチュアもプロフェッショナルもない。
検証を怠るものへの陥穽。
そういうことだ。(2.19.04)
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