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やめませんか、高卒ルーキー、日本人横綱といういいかた
やめませんか、高卒ルーキー、日本人横綱。
そのいいかたがいやらしい。
ルーキーはルーキーのひとことでたる。
17歳のルーキーならば中学か高校はでていよう。
22歳のルーキーならアマチュアでやってきたことはわかりきったことじゃないか。
30歳40歳のルーキーだってでてきていいはずなのにでてこないのは、年齢や人種といった人間が勝手にあみだした概念を基準にしてるからである。
思い込みや噂、ときには常識といった言葉に影響されて各人がおきまりの自己規制に陥る。
それでおしまい。
だからこそ曙さんのチャレンジ精神にたいして尊敬し、拍手をおくるのである。
日本人として。
横綱は日本人であろうが外国人であろうがかまわない。
所詮、日本人か外国人か、そのルーツは森の中であったわけで、それ以外のことは不確かな情報に委ねられているのが近代科学隆盛の世にあっての現実で、いまの実相である。
人間は細胞をつくれない。
DNAだって解析はできても、それをもとからつくることはできない。
遺伝子で遊んでいるにすぎないのである。
大げさなことをいっているのではない。
常識などはない。
断じてない。
常識とおもっているひとが大勢いるだけのことでしかない。
だからよその国では非常識にかわりもする。
常識なんてそんなものである。
必要なのは常識を考えることではない。
常識を、常識だとおもっている事柄について整理することである。(1.23.04)
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