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痛恨ドローでイヴィツァ・オシム監督“人生論”クドクド
JEF市原痛恨のドローでイヴィツァ・オシム監督も“人生論”クドクド。
スポーツ記者はなにげなく書く。
なるほど、きみはクドクド、と感じるか。
しかし、それは市原に足りないのは人生論だから、イヴィツァ・オシムはいうのである。
イヴィツァ・オシムはそう感じたからいうのである。
総じて、日本に欠けていることを、イヴィツァ・オシムは明快にいうのである。
われわれに欠けているものこそ、この人生論だ、というのである。
正しいか、正しくないか、うざったいか、うざったくないか、ではない。
聴くべし。
すすんで拝聴すべし。
いままでに、イヴィツァ・オシムのようなヘッドコーチがいたであろうか。
硬直しそうな話題にユーモアをとりこむことによって助けられているのは、逆に日本の記者たちではないか。
もっとかれについて勉強するべきである。
かれこそがわれわれの貴重な教師となりえるのではないだろうか。
と、迷っているうちにかれはヨーロッパへ帰ってしまうぞ。
そのときになってはじめて惜しむだろう。
もちろん、かれのいうことがまちがえだ、と感じたら、その旨を簡潔に述べるべきである。
かれはびっくりし、日本にもサムライはまだいたか、とおもうにちがいない。
ただ、印象のみをとって、クドクド、という表現をつかうのは失礼である。
かれは、すくなくとも、わたしの身近にいる無責任なお年寄りのひとりではない。
それに、かれはクドクドの意味をしらない。
おなじことをジーコがいったとしよう。
クドクド、とは使うまい。
かれジーコとて、かれの人生論をかたっているにすぎないのである。
衣食足りて礼節を忘る、といわせてはならない。(9.22.03)
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