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アカデミックの不振
毎年、数万の経済学士を生み、数百のエコノミストを抱えているにもかかわらず、このていたらくはなぜだ。
そもそも学ぶ学問がなっていないからだとは気がつかないのだろうか。
これでは有用ではない。
むしろ無駄である、と。
アカデミックの不振は、学問の教科書化に危機感をいだけず、ただそれへの注釈に終始し、活況をおびる努力、つまり検証をおこたってきたからにほかならない。
時代が閉塞しているのではなく、時代が閉塞しているかどうか検証もしないまま、無責任に時代の閉塞を反射的に口にする。
そこに執着するあまり、近視眼でしか物事を見られない。
そのような人のなんと多いことか。
悪い癖、というには、あまりにお粗末。
時代は閉塞などしない。
時代は人が勝手につくった概念である。
そこに考えが及ばないから、経済活動の主体を人だと勘違いする。
われわれの営みは地球に拠らざるをえないのに、肝心な地球時間すら見えてこない。
時代とは目安でしかない。
人は概念で遊んでいるにすぎぬ。
遊びは楽しいばかりを意味しない。
こういう悪い癖、お粗末さをだしてさえ、ときに人は遊ぶのである。
時代は閉塞した、とする人間が一定量を超えているにすぎぬ。
ましてメディアでの無反省な吹聴をくりかえし耳にすれば、暗示にかかる人の増えるのはやむをえない。
メディアにはアナウンスしない勇気もある。
それがアナウンスする使命とともに同価値なるメディアの存立基盤でもあるのにもかかわらず、昨今の単なるたれながしに危機感はまったくない。
メディアはメディア自体がその基盤を崩し、その果てに、いつも自己瓦解してきたではないか。
いつも。
なにを勘違いするのか。(9.19.03)
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