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それは大人いかんである
よくも悪くも子供は大人の真似をするもの
もちろんすべてとはいわない。
が、すべては大人いかんである。
小学校児童とフットボールで遊んだ。
炎天下、きつかったが、楽しかった。
滝のように流れる汗はひさしぶりであった。
指導者はみなヴォランティアであった。
途中、えらいかたが見えたのだろう、そのかたに挨拶をせがむ。
試合後、ヘトヘトなところへ、挨拶を、ということになった。
疲れていようが体面を重視する。
そちらのほうが実よりも大事だといわんばかりであった。
で、指導員で審判員のかたがいた。
試合の笛をふいた。
あるとき女性がスローインの際、注意を受けた。
ファウルスローであった。
試合後、審判はその訳をみんなに伝えた。
そして、こうもいった。
ゴールを決めたときは、ハイタッチ(ハイファイヴ)をしなさい。
試合後に握手をしなさい。
まじめな顔でいった。
わたしはこの国のスポーツ事情が理解できたとおもった。
これはスポーツではない。
これが体育なのだ、と。
アスリートがたがいに握手したり、ハイファイヴやこぶしをあわせることは強制ではない。
ハイファイヴせよという審判みずからハイファイヴをして見せなければいけなかったのである。
ナイスシュート、とハイファイヴする。
審判であろうが、指導員であろうがかまわないはずなのに。
そのときの大人の姿をみて、子供たちは大人を真似るのである。
大人がよろこぶ姿を子供たちは見、そのよろこびかたを学んでいく。
やはり、子供は大人の鏡でしかないのである。
すべては大人いかんである。(8.26.03)
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