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アルゼンチンは失敗したのか、マルセロ・ビエルサ
指示通りに動く選手というのは、実は、指示通りにしか動けない選手である。
また、指示通りにしか動かない選手でもある。
その選手に予想外のプレーを期待しても無駄である。
まじめ、とはそういうことで、負けても、指示通りにやったではないか、と逆にくってかかる。
能力がないのではなく、選択肢を持った考え方をしない、できない。
つまり脳力がない、ともおもった。
が、いずれにせよ能力がない、といわざるをえない。
試合では、指示通りに動かなくてもいい場合があること。
指示を得られない場合はかならずあるのだし、ときに指示にさからうことも必要であること。
さまざまな場合に即応するには指示を待っていては時機を逸する可能性がきわめて高いこと。
これらの認識が、少なくとも、なにも考えないでいるよりマシだ、程度の考えかた、発想の正当性がいきわたっていない。
それゆえに、環境として育まれてきていない。
人が人に教えるとは、そもどういうことか。
また、人が人から学ぶとはどういうことか。
試合まえに確認する。
重要なのは集中、集中と対象のさだまらない、わけのわからない行為をいいあうのではなく、マークする選手の背番号を各自が明言し、責任を明確にすることだけですむはずである。
なにもことを複雑に考えることはない。
よりシンプルに、より短く。
アルゼンチン代表ヘッドコーチのマルセロ・ビエルサは哲学者である。
かれは約束事を数多く提出し、綿密で緻密、しかも詳細に、微にいり細にわたり、口すっぱくなるほど確認をしつづけた。
ミーティングに時間をかける、と記者はいうが、事実はそうではない。ミーティングに時間がかかるのだ。
やがて、しだいにメンバーが固まってくる。
もうミーティングに時間をかけることはない。
すでに幾度と話し合っている気心しれた間柄。
それがチーム。
ディエゴ・マラドーナは母国アルゼンチンが失敗したとき、マルセロ・ビエルサを批判した。
だが、そのディエゴ・マラドーナとて、マルセロ・ビエルサのまねはできない。
さすがのディエゴもプレーヤーとしては超一流だが、観客としては並以下の、ふつうの人になりさがってしまったようである。
たしかにマルセロ・ビエルサは結果をだせなかった。
それだけで更迭は当然であった。
しかし、いまもなお歴然と、ラ・プラタが運ぶ風のなかで、静かな哲学者マルセロ・ビエルサは捲土重来を期している。
アルゼンチンがなにを選んだのか。
わかるだろうか。(8.13.03)
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