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そうだ、芸術は爆発なのだ。
故岡本太郎さん
年暮れにNHK交響楽団、ベートーベン第9番の演奏会を聴いた。
かっこよかった。
演奏がおわるや、ブラボーの声、声、声。
なりやまない拍手。
それはそれでよい。
ただ、わたしはブラボーとはぜったいにいわない。
すでに評価のくだっているものは、黙って聴いていればよい。
ブラボーと叫びにきているのではなく、安寧を得るためにきたのである。
そのときも良い演奏であった。
芸術を理解するには、資格がいる。
資格なぞ不要だ、と、ふとどきものがいう。
ならば問う。
たとえばあなたが新進の、無名の奏者の演奏を、無名の作曲家の作品を、無名の画家の絵をまえにして。
そのとき、素晴しい、と感じたら、あなたはブラボーといえますか。
核心は、ここにある。
新人の作品なぞには用はない、とお思いのかたもいよう。そういうかたには問わない。
念のため。
ただ、ベートーベンも無名であったことは忘れてはならない。
芸術は爆発だ、と巨匠がいった。
すると多くの蒙昧の徒は哄笑した。
ばかぁいってやがる。
だが、そのとき、芸術は爆発ではない、といったひとはいただろうか。
芸術が爆発ではないと、だれがいいえるのか。
芸術が爆発でなくて、なんだろう。
傍観者は、つねに安全地帯にいる。
だから芸術は爆発だといいきる巨匠を笑いとばせた。
あのとき、わたしはたしかに笑っていた。
もはや芸術は爆発でしかない。
吹っ飛んでしまえば、それで完結の。
その死後に名声を高めてどうしようというのであろうか。
お遊びじゃないか。
生きていればこそ、その恩恵に浴さずして、なにが芸術だ。
そんなものは、ただの骨董である。
骨董は芸術品にはなりうるが、芸術ではない。
なぜか。
芸術は死ねば終わる。
ゴッホはいない。
武満徹もいない。
だが、ゴッホのようにアイディアをもつ画家、武満徹のように閃きを持つ音楽家はいる。
ほら、あなたのとなりのひとが、そうかもしれない。
芸術は爆発で、それに耐えることのできないものには火遊びで。
やけどするよ。
危ないから、さぁ、むこうへいったいった。(7.10.03)
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