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まじめにやってきたのに…
勤勉の意味を誤解しているむきがある。
勤勉が、条件であるかのごとく。
勤勉とは、努力することはあたりまえのことである。
それが大前提であり、なにを、どのように努力し、これから努力するかが問題なのである。
この整理がされていないから意味をはきちがえる。
その礎(いしずえ)のうえに創意工夫、行動力が試されるにすぎない。
勤勉は、善きこと、を意味しない。
肝に銘ずるべきである。
勤勉はあたりまえで、そこにどんな意志の種を植えるのか、が問われている。
勤勉は意志ではない。
様態にすぎない。
多くの人は、勤勉だから、まじめにやってきたのに、とこぼす。
まじめにやるのはあたりまえなのであって、それで所得を得るんだもの、偉くもなんともない。
むしろ、そういうときの、その意識に潜む、エゴに気づかなければ、なにも変わらないし、変われないだろう。
大きな壁をまえにして、ただ、大きな壁だ、と呟くばかり。
大きな壁も、気にしなければ視野から外すこともできる。
その壁を越えたいのなら、掘るか、梯子をつくればいい。
壁を壊したいのなら、仲間で壊せばいい。
もちろん一人でやるのもいいだろう。
なにかをやろうとするところに、勤勉があるにすぎない。
勤勉であった。
それは認めよう。
しかし、単に所与の目標を完遂することは、勤勉をその宗とするひとには好都合であるのも、また事実である。
一生懸命やってきた。
それは、やれといわれて、はい、やります。
それを仕事だと思ってきたにすぎない。
目標を喪失し、いざ鎌倉。
おのれの両の手で生きていかねばどうしようもない、という、この状況とは次元がちがう。
考えが甘い。(6.17.03)
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