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応援のしかたを変えようじゃないか
応援のしかたを変えようじゃないか。
広島東洋カープの前田智徳選手が、客から
「がんばれよ。」
といわれた。
すると、前田智徳選手はその客に、
「おまえもな。」
といったという。
前田智徳という男は、なんと不逞やつだ。
が、ほんとうは前田智徳選手が正しい。
よく考えてみたまえ。
まず、収入。
前田智徳選手のほうが多く稼いでいる。
知名度。
広島市をはじめ、中国地方くまなく知れ渡っている。
そのかれに、がんばれよ、とはずいぶんと失礼なはなしだ。
前田智徳選手とは、稼ぎも知名度も、名声もくらべようのない一個人が、どう考えてみても、がんばれよ、とは、いえないだろう。
僭越のきわみである。
がんばらなくちゃぁいけないのは、がんばれよ、といった客であり、がんばってください、というわたしなのである。
せめて、前田智徳選手におまえもな、といわれたら、オッケー、のひとことぐらい返さなくてはいけない。
それも、にこにこと笑いながら。あの前田智徳選手に声をかけられたんだもの。
がんばれ、は選手にとってはよけいなお世話以外のなにものでもない。
いったい、なにをがんばるのか、どこをがんばるのか。
いつだって、おれはがんばっているじゃないか。
がんばる、がんばれ、という言葉。
これは無責任の押し売り。
実体がなく、罪の認識がすっぽりと抜けた加害者が害をまき散らす行為のような、そんな言葉のように聞こえる。
いうほうはいつだって簡単にいえるのに、いわれたほうはいつでも返事に窮してしまう。
困らずにすむ方法は、いちいち応えないことか、もしくは、がんばりまーすっ、と返すことか。
究極の無責任。
たちの悪い言葉である。
だが、待て。
言葉に良い悪いはない。
とすれば、悪いのは言葉ではなく、言葉を使う人間じゃないか。
力の抜きかたが勝敗を分ける。
りきんでも力は出せない。
自然体のときにこそ最大限の能力を発揮するようにできている。
さまざまな圧力のなかで、自然体を模索することの至難。
極度の緊張から息抜きをはかるためには、がんばらないこと、手を抜くことがかならずしも悪いことではないのに。
がんばりすぎる弊害がみえかくれする。
がんばらなくてはいけないのは、市井に生き、あんまりがんばったりしたこともなく、しょっちゅう手を抜いている人のほうである。
これからは、がんばって、という言葉をつかわないようにがんばってみよう。(2.27.03)
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