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大人のサッカー
中村俊輔選手は、きっといい子であったし、これからもいい子でいるだろう。
イタリアのサッカーを見るたびに、おとなのいることをおもいしらされる。
そも、おとなとは。
身勝手。
贔屓のチームが負けたら、チームの高給取をなじる。
とくに国外からやってきた選手の場合は2ランク、ヒートアップ。
次節、ふたたび敗北を喫するや、その嘲罵は2乗になる。
やつを加入させたのはだれだ。
燃えあがった火は延焼をはじめる。
燃えかた、真剣、感情の起伏、思いいれ、どれも同じことがらなのに、違いがでるのは、言葉が違うからか、食べ物が違うからか。
プロフェッショナルとは、ある職業、もしくはそれに付随するものである。
人生一般のプロフェッショナルなんていうものは存在しない。
演じられるか、どうか。
ふだんはいい子でもいい。
悪い子でもいいのかもしれない。
だが、ひとたび仕事場に起てば、別人になる。
それがあたりまえ。
それがプロフェッショナルである。
顔つきはもちろん、性格も口調も変わる。
豹変。
この一点。
日本では、
「とらになる」
といわれていいイメジをもつかたはいないだろう。
たとえば、この、
「とらになる」
ひとが愛される国がイタリアなのではあるまいか。
人生を肯ずる姿勢。
懐の広さ、とでもいえようか。
強烈な無常観が底流をなしているからこそ、泣いて、笑って、喧嘩して、飲んで、食べて、大声で叫んで・・・、ときて、なぁんだ、われわれが毎日やっていることじゃないか。
でも結果において印象が違うのは、演じるだけではなく、ときに観ることを、演じることの腹背と位置づけているからだろう。
日常というものは分水嶺のごとく、ときにかの地へ流れ、ときに斯の地へと流れる。
どちらかに流れるだけのことで、所詮、源は山にある。
川をみて山を憂う信条とでもいえようか。
すべては山、その山がすべてなのである。
この国に足りないものはなんだろう。
演じ、そして観る、の両方なのだろうか。
いいや、そんなことはない。
なんだろう、なんだろう、う〜ん、と唸って、そうだ、足りないもの。それは。
イタリアはかっぱらいが多くて日本よりも劣る国だ、と日本の子供がいった。
するとイタリアのおとなはこういった。
ならば、サッカーでイタリアを負かしてごらん。
そうだ、日本に足りないもの、それはイタリアに勝る代表だ。(2.17.03)
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