岩井不巡 スポーツコラム
スタジアムで会いましょう

  フェアープレーについての誤解

 フェアープレーについて誤解していないだろうか。

 たとえば、試合中、選手同士が交錯した。
 敵味方それぞれひとりが地に伏せた。
 防御側の観衆はプレーを止めるよう声をあげ、審判の笛を促す。
 フェアープレーじゃないぞ、という。
 しかし、

 このとき攻め手は攻撃をやめてはいけない。
 地に伏す選手が目に入ったとてしても、かれは攻めつづけなくてはいけない。

 転んだものが悪いのである。

 ボールを追えないのは、所詮、転んだものの責任なのである。
 ラグビーもサッカーも、およそフットボールと名のつく競技では、転ぶということの意味はそういうことなのである。
 それをもってしてフェアプレーか否か、語るべきではない。
 選手はただ転ばないように鍛えればよいのだから。
 転ぶのはつたないから、ただそれだけなのである。

 審判が笛を吹いたとき、すみやかにボールをとめる。それがフェアーというにすぎない。

 観客はただ見ればいいというものではない。
 より深く、より鮮明に試合を解析しなければならない。
 銅鑼や太鼓を鳴らして見るものではない。
 だいいちそんなことをしながら試合なぞ見られるものか。

 応援とは選手と一緒になってたたかうことである。
 いいプレーとはなにか。
 緩慢なプレーとはなにか。
 拍手で応え、ブーイングで答える、のいずれかでしかない。
 だからこそ観客が選手を育てる、といえるのである。

 イチロー鈴木一朗選手が、いみじくもいった。
ここU.S.A.のお客さんは、野球をよく知っている、と。
 それはそうだろう。
 かれらのほとんどは球場へ「観に」きているのだもの。
 それゆえ観せる側の選手は手抜かりなく準備し、全力でベースをかけぬける。
 そこにあるのは、プロフェッショナルという意味の凝縮でしかない。

 つまり、おれたちはこれで食っている、という強烈な自意識の根を植え付け、そして培い、矜持という枝葉を育ませているからである。(11.11.03)




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