岩井不巡 スポーツコラム
スタジアムで会いましょう

  声なきもの、キーパー失格

 サッカーを楽しんだ。
 人数が集まらなかった。
 はじめてキーパーになった。

 相手は小学生とはいえ、近距離でのシュートには相当の勇気がいる。
 こわいものである。

 キーパーになってみると、いろいろと見えるものである。
 うしろからの声はまさしく神の声、になりうるのである。
 スペースが見えるし、相手チームのフリーの選手がわかる。
 攻撃、守備の巧拙が見えるのである。

 たとえば、ゴールキーパーの仕事は、ボールをゴールに入れないための捕球はもちろんであり、勇気がなくてはならない。
 また、攻撃の起点として、正確な配球ももとめられる。
 それに、コーチングである。

 声をださないキーパーは、それだけで、キーパー失格、キーパー落第、とすべきではないか。

 キーパーとは、そういうポジションなのである。

 いいキーパーの条件は、まず、大きい声がでるかどうか。
 できれば、よくとおる声がいい。

 普段は大きくなくてもいいのである。
 指導者はそこをはきちがえてはならない。
 声が大きいからキーパー向きだ、といってはいけない。

 ディフェンスはディフェンダーとキーパーで組み立てるべきものである。
 そこにはさまざまな約束がなくてはならない。
 それゆえに、ディフェンスにはチームとしての熟成がもとめられる。

 とはいえ、攻撃方法は無限であるはずはなく、パターン化できるはずである。
 それがわかれば、対応に苦慮などしなくてすむ。
 約束事の量とて、数百、数千には及ぶまい。
 組織で守るということはそういうことである。

 必要なのは想像する習慣をもつことで、想像する力、クセを身につけることが肝要である。
 俯瞰の状態で見られるかどうか。

 声のないキーパーは、無自覚であるだけに、無責任になりがちである。

 そのポジションの優位性を活かしていない、最たるものである。
 もったいないことこのうえないのである。

 キーパーをみれば、どのようなチームかわかる。
 見る人がみれば、ほぼ、くるいのない範囲で予測できるのではないか。

 キーパーを選ぶ。
 それはどのようなチームにするか、を決めることである。

 その存在はまさに死活となり、またその責任は大きい。
 再認識すべきである。(10.5.03)




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