岩井不巡 スポーツコラム
スタジアムで会いましょう

  中村俊輔、柳沢敦選手
  あなたがたには迷惑だろうが、
  あなたがたはニッポンを代表しているのである

 一喜一憂が、わるい癖である。

 結果を急ぐ、わるい癖である、としても。
 しかし、

 たとえば、イタリアセリエAの中村俊輔、柳沢敦両氏の評判が芳しくない。

 あたりまえだ。
 うろうろするばかりで、意思の表示がぜんぜんないのだもの。
 そんなのは欧米では通用するはずがない。
 プロであろうが、アマチュアであろうが、なんらかのビジネスをしているとすれば、あんな甘っちょろい姿勢では、嘗められるのがおちである。
 だから、かれらは嘗められているのである。
 そうして同時に日本が嘗められるのである。

 日本という個性はない。
 たしかにない。
 日本人はおとなしい、といういいかたは間違いだ。
 が、現実に二人のジャッポネーゼはおとなしく、かれらイタリア人のまえには、そういう日本人しかいないのも事実である。
 できることは、もっと違う日本人選手を輩出するしか方法はない。
 へぇ、こんなジャッポネーゼがいたのか、と。

 つまり、中村俊輔、柳沢敦両氏には、おれはおれ、という子供じみた意識しか芽生えていないのであろう。
 おれはおれ、のまえに、おまえはジャッポネーゼ日本人、であることを、かれらは意識の外に措いている。
 だから通用しないのだ。
 日本を、日本人を意識しなければ、たたかいには勝てやしない。

 いっておくが、きみたちはホンダ、ソニーといった良質な輸出品ではなく、ラモスのような開拓者でもない。
 いってみれば、かの地で試されている、テストされている、いわば戦後のメイドインジャパンと同程度にすぎない。

 フットボール先進国は、日本を、日本人を、日本のシステムを、日本の育成方法を、日本文化を試しているのだ、ということを、もうそろそろ気づかねばならず、悟らねばならない。

 イタリアのマスコミの論調が揺れるのは、中村俊輔、柳沢敦両氏がイタリアのマスコミとの応対をまちがっているからである。
 そこは日本ではない。
 まだ気がつかないのだろうか。

 田口壮選手を見よ。
 かれのたくましい顔を見よ。
 笑顔からのぞく白い歯を見よ。
 かれの苦労こそが日本人の、ある種の手本、ある種の見本なのである。
 イチロー鈴木一朗選手や松井秀喜選手ではない。

 ここにいる、と手をあげないものに、だれがボールをわたすだろうか。
 ここによこせ、と声をあげないものに、いったいだれが振り向くだろうか。
 振り向けといわなければ、かれらは絶対振り向かない。
 あたりまえじゃないか。

 お人好し、という言葉、そのメンタリティーは、日本語を操るものの内にしかない。

 阿吽の呼吸と、アイコンタクトとはまったく異質、水と油、西洋と東洋、男と女。
 そこにあるのは、いい意味でも、悪い意味でも、せめぎあいでしかない。(10.27.03)




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