真理に媚(こ)びず 虚偽を蔑(さげす)まず 知識に諂(へつら)わず 無知を侮(あなど)らず
  いまこそ、自己の責任を問う 【コロナ禍、ひとつの対策】

コロナ禍がつづく。
政治判断をのぞむ声がおおい。
が、
政治判断でコロナ禍をうっちゃれはしない。
問われているのは、
それぞれのひとがなにをおもい、
なにをするか、
もしくはなにをしないか。

感染症への対応は、
まず、
わたくしが加害者かもしれないという前提に立つことである。
わたくしも、
あなたも加害者かもしれない。
しらずしらず、
感染者をふやしているのはわたくしかもしれない。
そのおそれをしることである。

感染者をふやさないために、
マスクをする、
手を洗う、
大声でしゃべらない、
密集にちかよらない、
密集をつくらない、
密集ができそうなときは分散する。
それぞれがこれらのおそれをもつこと以外に感染症への対応策はない。

政治家の号令をまつまでもなく、
感染症への対応方法ははっきりしてきた。
にもかかわらず。

政治家が号令をかけるのをまっているふりをしながら、
いざ号令をかけると、
難癖をつける。

わたくしがコロナに感染するのはわたくしの責任。
あなたがコロナに感染するのはあなたの責任。
そうならないために、
わたくしがなすべきことはなにか。
そうならないために、
あなたがなすべきことはなにか。
いまこそ、自己の責任を問うべきではなかろうか。

政治家の判断のまえに、
まずわたくしの判断がまっとうなのか、
どうか、
問うべきではなかろうか。
さすれば、
感染させるおそれのある行為はより慎重にならざりをえまい、が如何。



わたくしは音引がきらいである。
Paul なのに、なぜポールになるのか。
ポウルでいいじゃないか。
だいいち English でもポールと音はのびていない。
ポオルもしくはポウルというべきである。
ストラヴィンスキーではなく、
ストラヴィンスキ。
ひといきつく紅茶ならば、ダジリン。

 数学、算数はおもしろい学問だとおもっている。
 なぜ苦手な人が、これほど多いのだろう。
 教える人に、つまらない者がなるからではなかろうか。
 算術を無味乾燥にしている元凶は、それを教えるひとがそもそも楽しんでいないからである。
 児童、生徒が学ぶものは、すくなくとも答えのある学問だ。
 答えをみちびきだすことは、いわばパズルと同質ではあるまいか。
 楽しいはずのものである。
 それが楽しくない。
 むしろ苦痛だといわしめる。
 多くの教諭がすでに算術の楽しさを忘れてしまっているからである。
 学問はつまり楽しさを語り継ぐことでしかない。
 理科系、文化系というくくりもまた、まちがってはいまいか。
 理科と数学は数字をあつかうからと同じように語られる。
が、似ているということは、あきらかにちがう、ということのはず。
 学問とは、答えのあるもの、と、答えが見いだせていないもの、とでくくるべきである。

 もし大震災が小泉純一郎さん総理大臣在任中のときに起こっていたとしたら。
 小泉純一郎さんは、どうなさっただろう。
 現状とはあきらかにちがっていただろう。

 一国の総理大臣について、ポピュリズムと一言で括ってしまっていいのだろうか。
 人気がでるたびに、ポピュリズムという言葉ですませてしまう。
 そんな簡単なことなのだろうか。
 欧米の事情にくわしいひとがよくやる短絡である。
 ここはU.S.A.ではない。

 目は細いが、なかなかの男前。
 父親は国会議員。慶応大学卒。
 ばついち。
 俳優の息子はいやみがない。
 身にまとうシャツはくどくない。
 ロングでウェービーの髪はいままでの政治家にはいない。
 短い言葉をくりかえす。
 自説をまげない。

 結局、いままでにいない政治家なのである。
 スマートで、素敵なおとうさんなのである。

 地位にあぐらをかかない。
 良いか悪いかはあるが、すくなくとも決断力はある。

 そういうひとを相手に、たたかっていることをだれも理解していなかった。
 みくびっていた。
 野党の責任は重い。

 よい政治とは、いいひとによる独裁だ、ときいたことがある。
 独裁が語られなくなって、その空気を読めるひとが圧倒的にすくないとき、民主主義は金と時間がかかりすぎるから形をかえようと、いいひとが制度をかえるかもしれない。
 今回の選挙でわれわれはそのチャンスを実際に与えたのである。

 問題はいいひとのあとにくる。
 選挙が終った。
 こんなに与党に議席をあたえて、ほんとうにいいのだろうか。
 それほどの権限を与えたことになる。
 情緒的な判断しかくだせない性(さが)が出たというほかはあるまい。
 いずれにせよそれがニッポンなのである。

 選挙のたびに話題になるひとがいる。
 裏を返せば選挙のときだけ顔をだす。
 いったい国会の場で、なにをやっているのだろうか。
 それが見えない。

 細かな項目をつくり、議会での行動を一瞥でわかるような評価シートを設けるべきである。
 なにをやってきたのか。
 なにをやろうとしているのか。
 どのような議員立法をたてたのか。
 所属委員会での発言はどうであったか。
 ともすれば、議員立法のたちあげかた、国政調査権すら理解しない議員が多数なのではあるまいか。
 議員の質をどう監視するか。
 有権者の見識はいつも問われている。
  
 質問力がない。
 ラジオで日本放送協会の予算審議を聴いていた。
 質問者は年若い議員で、だれもがはじめは丁寧な口調で、雑感をまくらに独演会がはじまる。
 議員の質問なのか身辺雑記なのか、無駄なまえふりのモノロ−グに、NHKの役員が調子をあわせる。
 かれらは淡々と答える。

 単調である。
 しだいに議員の口調に苛立ちが感じられ、最後は異口同音、質問者はだれもが憮然と、そして持ち時間をつかいきる。
 そのどれもがつまらなく、二つ目さんの落語のようで、これには失笑を禁じえなかった。

 へたくそである。
 勘違いしているのだろう。
 それはひとりよがりで、ユーモアも鋭さもなにもない。
 印象に残ったことといえば、NHK役員の答弁慣れと議員の私憤だけであった。
 対象がぼんやりとしたままだから、いたしかたあるまい。

 質問はだれもができると高をくくってはいまいか。
 質問は技術である。
 にもかかわらず、そこに勉強を感じない。

 質疑にはそれぞれ持ち時間がある。
 質問者がしゃべっているばかりで、いっこうに質問をしないのはなぜか。
 簡潔に質問し、相手にこそしゃべらせる。
 それが予算審議の醍醐味である。

 質問者の技量は相手をしゃべらせてこそのもの。
 これは議員の程度を云々するよりも、そういった議員しか出せぬ、われわれの程度の低さをものがたるものでしかない。
 
 医者が、そんなに偉いのか。
 治せるものをただ治すだけのことではないか。
 それとてもこころもとない。

 治せないものはだれがやっても治せないままじゃないか。

 なぜ、そうも医者にへつらうのか。
 なぜ、医者におもねるのか。
 なぜ、医者にこびるのか。

 なぜ、医者はいばるのか。
 なぜ、医者はおのれの能力を過信しつづけるのか。
 たかがしれた知識だと、どうしてかんねんしないのか。

 なぜ、医者をひととして見ないのか。

 なぜ、医者というだけで優遇しつづけるのか。

 難関といったってそれはそれ、入学試験の成績が、ほとんど苦手なおおくのひとよりも、ましなだけ。
 ただそれだけじゃないか。
 フジテレビだけではないか。
 ライブドア堀江貴文さんのニッポン放送株買収について報道しないのは。
 なぜか。
 報道とは所詮、恣意だからである。

 報道するか、報道しないか、は報道する立場にあるものたちが選んでいるというにすぎない。
 報道するもしないのもかれらの勝手なのである。
 ならば、
 残虐な殺傷事件、巧妙な詐欺、などアナウンス効果による流布を防ぐためにも、報道しない基準こそを設けるべきである。
 報道とは、報道するものがたりと同時に、報道しないものがたりが均質に語られなければならないからである。
 またその影に、報道されないものがたりが山積することも意識されていなければならない。
 つねに。
 東京の家賃と運賃。
 どうすればさがるか。
 わが邦の経済問題はここにつきるのではあるまいか。
 生まれるは偶然。
 生きるは苦痛。
 死ぬのは厄介。

 作家開高健が溜息まじりに教えてくれた。
 男は自殺するかわりに旅に出る、ともいっていた。
 褒め上手。
 いまもなお、褒め上手をつくれないのだから、これからも、褒め上手はあらわれまい。
 褒めることが、いかにむずかしいことか。
 だれもしらないから、怒る、という短絡の罠にはまる。
 褒め上手は才能であり、それはいわば現存する唯一の「打ち出の小槌」。
 自分を頑固だ、とおもうだけならまだしも、口にだしてひとがいう。
 それを店の名前にまでつけてしまうひとがいる。
 それはちがう。
 頑固、とは、おのれを語るときに使うべき言葉ではないからである。
 じぶんは頑固であるといういいかたは、思考を停止した証拠でしかない。
               *
 きみは頑固だ。
 そういうべきであり、そういわれるべきなのである。
[汚れた英雄」を、よごれたひでお、といいきったのは役者高田純次さん。
 あっぱれである。
 で、もうひとつの読みかたである、英雄。
 英雄のいる国のひとびとは不幸である。
 英雄の出現を求めている国のひとびとはもっと不幸である。
 英雄はいつかかならず死ぬ。
 この摂理を忘れている。
 そして、英雄の死後にはかならずそうとうな困難が待ちうける、ということをも忘れている。
 人は、いまもって歴史から学べていない。
 英雄の力が大きければ大きいほど、その反作用は大きくなる。
 ふりかえってわが邦はどうか。
 英雄をもたないから、安穏としていららえる。
 なんとありがたいことか。
 予言はできない。
 が、未来予想図は描ける。
 それが人間の可能性である。
 子供は親のものではない。
 その子の国の宝である。
 やがて黄禍という意識が、その顔をもたげてくるのは間違いない。
 いつも理不尽に、しかも容赦なく。

 ほら、そのとおりになったでしょ。


 自然には誤差はない。
 ズレもない。
 あまりもない。
 だのに算術にはそのいずれもがおきる。


 なぜ人間はここにいるのか。
 生命体の起源は?
 生命体はどのようにしてできたのか?
 できたのか?
 と問うから、それはまるで地球上で生まれたことを前提に考えてしまう。
 が、何千年、何億年かかろうが、ゼロはゼロのままでしかなく、圧力が変化しようが温度が変化しようが水素は水素であり、酸素にはなりえない。
 無機質は無機質と反応しようが、やはり無機質のままでしかないのではあるまいか。
 生命は、はたして無からは生じない。
 地球外生物があるとすれば、そちらのほうを起源とするほうが理にかなっているようにおもえる。




 ご家族のみなさん、なぜあやまるのですか。
 誘拐された、あなたがたは、なにかあやまちを犯したのですか。
 政治家のいう自己責任とはなんですか。
 すくなくとも、わたしはかれらの行動が迷惑だとはおもっていない。
                      *
 イラクで誘拐にあった邦人にたいして傍観者ができること。
 それはただ黙ってかれらの安全を祈ることだけである。
 ふたたび行く。
 それでいい。
 誘拐を恨みこそすれ、かれらの行いは行動者のものである。
 その行動が善いか悪いか、傍観者がいうべきではない。
 一方で国がすべきことは、渡航先の外国政府に対し、旅券所持人が支障なく旅行でき、かつ必要な保護扶助を受けられるように要請し、その国の旅券をもつものの安全を各国に依頼することでしかない。
 面倒をおこすな、というのは筋が違う。




 愕然とした。
 新聞が、
 日本人は皆殺し、
 という見出しを載せた。
 東京スポーツではない。日刊スポーツの一面である。
 日本人に犠牲者がでた事実。
 それ以上の危機感を煽ってどうしようというのだろうか。
 家族はいたたまれない。
 その配慮をまったく欠いている。
 所詮、他人事なのか。
 たった3人だからなのか。
 なぜこのような文句を掲げるのだろうか。
 なぜ日本人は、同胞に対して、かくも冷淡なのか。



 イスラエル、シャロン首相はこれらの反響を予想してのアタックであったのだろうか。
 そのために、すすんで死へ赴く人は何人いて、またそのために死へ招かれる人が何人になるのか。
 シャロン首相は予想していたのだろうか。
 もちろん。
 かれはいうだろう。
 では、いったいシャロン首相はいつから神になったのだろうか?




 真のグローバリゼーション。
 国際化が問われるのは、わが国はこれからだ、とおもう。
 国際化とは、かいつまんでいえば、育った環境が違うものどうしが引き起こしてしまう軋轢、どうしようもない葛藤の歴史でしかないのではあるまいか。
 国際化が進むとは、その軋轢、葛藤をさんざんに経験し、どうにかしていくよりしかたがないのだ、というなかばあきらめ風な心境になって、はじめて見えてくるのではないか。
 一進し、一退す。そこにあるのは進歩という多分に希望的観測の含まれた言葉ではなく、千変万化という一見単純なような錯覚を覚えるが、実はこれこそがひとの一生と同義の言葉である、とおもわれる。
 国際化とは異国語を流暢に話すことをいうのではない。
 佐高信さんは、
「国際化とは外へ進出することではなく、内を開くことだと私は常に考えており。」とおっしゃっている。
 世はデフレーション。
 それでもさがらぬ家賃と運賃。
 これらがさがらないのは硬直性があるからだ、という。
 さがりにくい理由だけを調べるのが科学ではあるまい。
 どのようにしたら下がるか。
 これは経済学の問題ではなくてむしろ心理学になるというのだろうか。




 繁盛する店のまえにできる列に並びながら、おれたちは、よぉく教育されている、とつくづくおもう。
 ただ黙々と、延々と待つ。
 待ち上手ではある。
 おれたちが受けてきた「教育」と呼ばれるもの。
 それは、個々の判断力を、良くも悪くも強化、補強するものではなく、単なる自制力を身につけるためのもの、つまりは繁盛する店のまえにできる列にただ並ぶ、その方法を習っただけのようにおもわれてならない。
 だから延々と列にならぶ。
 ならばないですむ方法など初めから考えず、ならぶことがどういうことなのかすら考えない。
 自分がよしとしたのだからいいじゃないか、ほうっておけ。
 右向け右。
 左向け左。
 合図は聞こえない。
 が、結果として選択した行動は従順。
 そういうことになる。
 現実は、合図がない、にもかかわらず!




 理科系、文科系という括りかたに間違いはないのだろうか。
 答えの在る学問と答えのない、もしくは答えの見つけにくい学問と、この括りかたのほうが適切ではあるまいか。
 入学試験はどれも答えの在る学問でしかない。
 その基本のうえに、答えの見つけにくい学問がある、とは断言できない。
 つまり、基礎、応用の括りかたにも再考の余地があるのではないか。



 
 土下座の精神。
 土下座する、その精神がいやらしい。
 それで許す、とする精神もいやらしい。
 おおげさで、だいいち、みっともない。

 たとえばそれは精肉屋が、並と上、特上とを平気で使い分ける精神とおなじである。
 人に並を売って平気なのである。
 謝りかたにも、並と上、そのうえに特上がある、というのとおなじことなのである。

 この精神が横溢する。

 人に物を売るのならば、並は売らない。
 人から物を買うときは、並なぞは買わない。
 月並みと平凡と、並とでは意味がちがう。


 
 なぜ国会議員やその所属する政党に、食料自給を第一の目標に掲げるところがないのか。
 不思議でならない。
 また、それをよしとする、というよりも、食べるものがなくなる可能性は日常に胚胎するのだという想像力を失ってしまったのか、想像することすらできなくなってしまったのか。
 だれかがなんとかしてくれるといった実体を欠いた、しかも曖昧で未整理なままの希望的観測がこの国を覆う空気となり、一向に議論がおこらない。
 牛肉や鶏肉、やがては豚肉とて生産国でなにかがおこったら食糧事情が一変してしまう。実際に変りつつあるのにもかかわらず、その変調に気づかない。
 この状況をおかしいことだ、とはおもわないのだろうか。
 そんなばかな。
 国産品が比較的に値が高いのは理由があるからで、それが安全神話にならないように経験をいかす方法論がおこらない。
 人口が一億人をうわまわる国のなかで、この国の食糧自給率をしたまわる国はない。
 この国の、なにかの程度が、世界で最低ランクにあることだけは間違いないようである。
 
 外来語をカタカナで表記しなくてはならないという約束はない。
 各人が無反省に、勝手におもいこんでいるだけである。
 それをもって読みにくいというならば、読点をつけるなり、一文字あき にするなり工夫すればよい。
 使いたくなければ使わぬもよい。
 ただひとつの選択としてあってしかるべきである。
 銀行の手数料とてあんなのは論外であるはずなのに、平気でいるのは、銀行家が不満をもらさない庶民をみくだしているからである。
 不満をもらす大口の顧客にたいしてはその見返りを用意する。
 なによりも悲しいことは、きめられたことはしょうがない、と奴隷精神に気づかない、すでに奴隷化された庶民がそのほとんどだという事実である。
 奇妙でへんちくりんな均衡で、もちつもたれつの、まことに不可思議な平衡がこの国にはびこっている。
 これらの平衡がいいのか、それとも悪いのか、いいきることはできるだろう。が、それはわたしの仕事ではない。
 すくなくとも、この状況が、奇妙だぜ、なんかへんだなぁ、そんなはずないょ、という断言はできよう。
 その整理からはじめたい。



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