第三章  嘆きのドリアード

 そこは異様は光景だった。
 色は緑や褐色や半透明の澄んだ色をしていて綺麗といえば綺麗なのだが、ものがものだけに不自然だった。
 セレナの指示に従って走ってきた。通る道はだんだんと幅が大きくなり、やがて広い所へでるのだろうという想像はしていた。
 先を走っていたセレナも想像もしていない光景だったのだろう。思わずそこで足を止めてしまっていた。続くアベルも同様に立ち止まる。
 そこは本当にだだっ広く、その広さは大きな競技場を思わせるほどの広さはあった。驚くのは広さというよりはその中にあったものだろう。
 その広間の中央に、まるで心臓を思わせるような丸く肉塊にも似た、巨大な繭のようなものがあった。だが、その大きさはまるで大きな教会を思わせるほどに巨大で、その広間にそれ一つだけある姿が、その異様さをなお一層高めていた。
「……なんなんだ、こりゃあ……」
 思わずアベルは顔をしかめる。確かにこの樹の中に入ってから見るもの全てが異様だと言えたが、その中でもこれは特に異質だった。
「……繭にも似ているわね」
 セレナはその巨大な繭らしきものに向かって歩いていく。それに気がつき、アベルは慌ててその手を掴んだ。
「待てよ。何だか分からないのに無闇に近づくな」
 セレナは最初手を掴まれて驚いた顔をしたが、彼が心配して止めようとしている事に気がつき、優しく微笑む。
「大丈夫よ。ここからは邪悪な感じがしないの。見た目は異様だけど…感じる空気はむしろすごく澄んでいて安心できるのよ」
 セレナの言葉に、アベルは辺りを見回した。淡い緑の空間に緑の繭らしきもの。その光景はとても異様で奇妙だが、確かにセレナの言うとおり嫌な感じはしなかった。むしろ先程までのいつ追われるか分からない状況に比べ、ここの方が静寂さと神聖な感じさえ受ける。
セレナは繭まで近づき宙に浮くようになっている本体を触ろうとする。だが、小柄な彼女はその本体にまで手が届かず、伸ばした手は空を切ってしまう。一生懸命伸ばしてみるのだが、一向に届きそうに無い。
必死で手をばたばたしているセレナにアベルは気がついたのだが、彼女が何をしようとしているのかがよく分からなかった。
「……なあセレナ、さっきから何してるんだ?」
 必死で触れようと努力している所にかけられた、あまりにも理解の無い言葉にセレナは当然腹が立つ。背の高いアベルには自分の苦労が分からないのだと思うと余計に腹立たしかった。
「あのね!見て分かるでしょう?繭に触れたいのよ!もう!自分が届く範囲だからって、腹立たしいったらありゃしないわ!」
 激しく怒るセレナに、さすがのアベルも事情が飲み込める。
 何だかんだお姉さんだの護ってやるだの言っているセレナだが、背が低く小柄な事実はどうしようもないのだ。今までお姉さん口調で話されていたものだから、その事実がアベルの中で少し認識に欠けてしまっていたらしい。
 怒ってじだんだを踏んでいるセレナを見て、アベルは思わず微笑む。
 いくら年上だといっても、彼女自身は人と同じ時間の流れを生きてはいない。だから年齢は上であっても、中身はその外見と似たり寄ったりの部分も多いようだ。
 今まではその外見と話し方で違和感を覚える事も多々あったが、こういう所を見るとそうは変わらない事にも気がつき、なんだか可愛らしく見えた。
「ふふ、何だかんだ言ってもセレナは子供なんだな」
「なんですって〜!言ったでしょう、私は二九のレディなんだって!」
 からかうようにそう言うアベルにセレナは余計に怒る。子供扱いされている事がさらに気にくわないのだ。だが、そう言ってむきになって怒る所はとても大人のレディとは言いがたかった。それが何だか微笑ましくも感じられた。
「はいはい、分かりましたよ。こうすれば良いんだろう?」
「え?きゃあ?」
 アベルは微笑むと、セレナの腰の辺りを両手で掴み、そのままひょいっと持ち上げた。突然抱え上げられてしまい、セレナは驚く。なんだかんだ言っても大きくて体格の良いアベルからすれば、彼女くらいの小さな少女を抱き上げることなど造作も無いことだ。見た目どおりの軽さでそのまま肩にだって乗せられそうな気がした。……そんな事をしたりしたら彼女に物凄い大目玉をくらいそうだが。それこそ子供じゃないんだと怒り出してしまいそうだ。
 だが、セレナの方は案外機嫌が良いようだった。視界が高くなり、手の届かない場所に手が届くようになったのが非常に便利に感じたらしい。
「ありがとう、もうちょっとそのままでお願いね」
 そう言うとセレナはやっと届くようになった繭に触る。繭は柔らかくて気持ちの良いさわり心地だった。ちょっとでも強く押すと壊れてしまいそうなほどの繊細さを持っていたが、その弾力性は強くちょっとやそっとでは壊れないたくましさも持ち合わせていた。
蚕の繭に良く似た感じといったところかしら……。
見た目やさわり心地での感想はそんな所である。だが、これが何なのか触っただけではやはり皆目見当がつきそうになかった。もう少し調べてみる必要があるだろう。
セレナはどうするべきか眉をひそめたが、ずっと宙に浮いたままの状態に気がつき、自分を抱きかかえてくれているアベルへと視線を落とした。彼は特別辛そうな顔もせず、セレナと同じように繭を不思議そうに見ていた。
「ねえアベル、今のままの状態じゃ辛くない?」
 小柄とはいえ痩せてガリガリという訳でもないので、ずっと抱えてもらっていることにはやはり抵抗があった。持ち上げた時はさほど大変じゃなかったとしても時間が経過してくれば話は別である。
 セレナの呼びかけにアベルは気がついて彼女の方に顔を向ける。
「ああ、いや別にそれほどでもないけど」
 本当に大して気にしていないという顔でアベルはそう答える。その反応にセレナは困った顔をした。自分の身の回りにいたのは魔導師ばかりだったから、彼のような剣士と直接接するのは初めてである事に気がついたのだ。共に行動した事もあるが、これほど密接に関わった事は無い。その体力の加減はどうにも想像がつきにくいものがあった。
 セレナは再び繭に視線を戻す。まだ繭を調べなくてはならないけれど、下からよりは今の状態のままの方が望ましい。しかし、いつまでかかるか分からないものに対していくらアベルが体力に溢れていても付き合えるかが怪しかった。
「もうちょっとこの高さで居たいの。でも、それだとあなた大変でしょう?今より負担がかからない方法ってあるかしら?」
 セレナの親切心からのその言葉にアベルは難しい顔をした。セレナはその反応に顔をしかめる。思いやってそう言っているのに、何故あんなに難しい顔をするのだろうか。
 一方のアベルはセレナの言葉に先程考えた事が瞬時に浮かんでいた。抱え上げているより、肩に乗ってもらった方が幾分楽になる。彼女の体重が腕ぎりに負担をかける訳ではなくなるからだ。だが、同時に最初に考えた事が頭に浮かぶのだ。
 言ったら物凄く怒るんじゃないだろうか。セレナと付き合い始めたのは本当に先程からという短い期間だが、彼女が猫のように気分屋であるのはもう十分すぎるほど分かっていた。それを思うとかなり言い出しにくい。一度機嫌を損ねると後が大変そうだからだ。
 だが言い渋っているアベルに、彼の事情を知らないセレナは却って機嫌が悪くなる。
「もう、言いたい事があるならとっとと言いなさいよ!」
 不機嫌そうにそう言われてアベルは言っても言わなくても同じだという事に気づかされる。気分屋であるという事は、気を回しても良い方向に向かうとは限らないのだ。
「……怒らないか?」
「だから!とっとと言いなさいって言っているでしょう?」
 念を押すアベルに、私はもうとっくに怒っているんだといわんばかりの剣幕でセレナは言い放った。元々つり上がり気味のその目はよりつり上がっているように見える。アベルも彼女の様子に観念した。これではどちらにせよ同じだろう。
「……肩に乗ってもらうか、おぶるかした方が楽といえば楽だ」
 アベルの回答に最初セレナはなんだそんなことかという顔をしたが、自分がそうしている状態を想像したのだろう、ちょっと顔つきが険しくなる。
 ……何だか小さい子がお兄ちゃんやお父さんに遊んでもらってるみたいよね。
 そんな事を思ったが、今は贅沢を言っていられるような状況でもない。セレナはやれやれとため息をついた。
「分かったわ、肩に乗せてちょうだい」
「あ、ああ。分かった」
 諦め半分のセレナにアベルは安堵した声を漏らした。彼女もそれしかないのが分かったのだろう、今以上に怒り出すのは止めてくれたらしい。
 アベルはセレナを肩に乗せる。背が高く体格の良いアベルと小柄で華奢なセレナなので、想像していた通り、簡単にその肩に収まってしまった。
 セレナはアベルの肩に腰を下ろすと、再び繭の方に向き直った。
 つややかな繭はまるで鼓動をしているかのように感じる。生きている事が伝わってくる波動を感じた。きっと繭の中央には何かが居るに違いない。
 セレナはアベルに頼み、繭の周りをゆっくりと回ってもらう。繭は天井からぶら下がるようにして何重にもその細い糸が絡み合っていた。
 セレナは今度は両手をぴったりと繭に押し当てた。先程感じた、手触りのいい感覚が両手に伝わってくる。生き物の鼓動を感じた。
 感覚を研ぎ澄ます。中にいる何かを探ろうと意識を集中した。
 閉じた瞼の向こうに何かが見える。正確に言えば見えるというより感じるといった方が正しいだろうか。
 何かがうずくまっている。細くて華奢な印象だ。長い髪をしている。泣いているようだ。
 セレナはもっと感じようと魔力を高め神経をさらに研ぎ澄ます。
 そこに居るのは淡い緑色の光を放つ女性。美しい緑の髪を持つ不思議な存在。
 ……あれは……ドリアード。
 捜し求めていた存在がこの繭の中に居るのだ。セレナは顔をしかめた。
 ドリアードは本来この樹の主である。何故、このような繭の中に居るのだろうか。
 それに、様子が普通ではない。彼女は泣き、絶望にくれていた。一体、何があったというのだろうか。
 呼びかけたら応じてくれるだろうか。出てきてくれるだろうか。
 セレナは深呼吸を一つすると、再び魔力を研ぎ澄ませ、心の声でドリアードに呼びかけた。優しく、驚かさないように慎重に。
『……こんにちは。あなた、この樹のドリアードね?』
 呼びかけに泣いていた女性は顔を上げた。そして、周囲を見渡す。
 彼女にはこちらが見えていない。セレナはその事に気がついた。
『私は繭の外に居るの。今は心の声で呼びかけているわ』
 セレナの説明に納得したのだろうか、彼女は声の主を探すのを止めた。
『……あなたは?』
 か細い声が心に響いてきた。ドリアードと思われる女性の声のようだった。
 セレナはコンタクトがとれたことをひそかに喜びながら、ゆっくりと言葉を続ける。
『私はセレナ。ちょっと理由があってあなたに会いに来たの』
『……私に?』
 セレナの言葉に彼女は反応を返してはくれるが、生返事に近いような印象があった。まるで、現実だとは思ってもいないような感じがする。
 焦ってはいけない。セレナはそう心に言い聞かす。
『ええ、あなたはこの樹のドリアードなんでしょう?』
 その言葉に彼女は少し考えてから頷き、悲しげに再び泣き出してしまった。泣き出されてしまうとセレナもかけるべき言葉を失う。彼女が落ち着くまで待たなくてはならなさそうだった。しかし、ドリアードはしばらくすると泣きながらも答えてくれた。
『……ええ、私はこの樹のドリアード。……だけど、この樹はもう私のものではないの』
 その不自然な言葉にセレナは驚くが、再び泣き出してしまった彼女にさらに困惑してしまった。これでは話がなかなか先に進まない。繭から出てきてはくれないだろうか。
『ねえ、ここから出てきてくれない?お話をしたいの』
 セレナはドリアードに呼びかける。出てきてくれさえすれば、直接話せる分、もっと色々と話せるはずだ。こうして心の声で呼びかける手間も省ける。
 だが、ドリアードはセレナの呼びかけに首を横に振った。
『……ごめんなさい。出てはいけないの』
『どうして?ここはあなたの樹でしょう?』
 出て行けないというドリアードにセレナはつい追求してしまう。ドリアードは自らの樹を支配しているはずである。彼女の意思さえあれば出てこられるはずなのだ。
 だが、ドリアードは泣きながら首を横に振り続けた。
『……ごめんなさい。私にはここから出て行く術が無いの』
 その痛切な声にセレナは追求するのを止めた。事情はよく飲み込めないが、はっきり分かることが一つだけあった。
彼女にはここから出て行く力が無い。それは、この樹の主である彼女に起きた異常事態を示していた。
だからといってこのまま放置もしておけない。彼女がこの樹のドリアードであるというなら聞きたいことは沢山あるし、案内してもらわなければならない可能性もある。
どうにかして、この繭から助け出さないと……。
セレナは瞼を開けると、再び巨大な繭を見上げた。この大きな繭からドリアードを救出するのは一体どうすれば良いのだろうか。
材質は糸に近いものである。火を使えば燃え去るのだろうが、そんな事をしたらドリアードも無事では済まない可能性があった。それは切り開くという手段にも当てはまる。間違ってドリアードまで切ってしまう可能性はやはり否定できないからだ。
「どうした、セレナ。何か分かったのか?」
 アベルが声をかけてきた。彼はセレナの行動を見守る事しか出来なかったのだが、何か彼女が障害にぶつかったらしいことだけは把握できたのだ。
 勿論、そう言葉をかけてみたものの、自分に何が出来るのかはよく分からない。ただ、それでも声をかけたかった。彼女一人にまかせっきりは少々気が引けたのだ。
 声をかけられてセレナはアベルの顔を見下ろした。とりあえず彼にも簡単に事情を説明した方が良いだろうか。打開策が沸いてくるとも思えないが、話さなければその可能性も全く無くなってしまう。彼は剣士だし、また違った見解をみせてくれるかもしれない。
「この繭の中に居るのはドリアードなのよ。だけど、ここから出られないみたいなの」
 簡潔にセレナはアベルに説明した。実際、セレナもそれ以上の事はよく分からないのだけれども。
 その言葉にアベルも繭を上から下へとじっくりと見下ろした。
「……この繭、切れるかな?」
 ぽつんとそう漏らす。その言葉にセレナは驚いた。
「だ、駄目よ!切る時にドリアードまで一緒に切りかねないじゃない!」
 慌てて反論するセレナにアベルは驚いた顔一つせずに平然としていた。
「それなら、手前で止めれば良いだろう?見るからに分厚そうだし、一気に剣が通るとは思えないし、そんなに心配しなくても大丈夫だって」
 セレナは顔をしかめる。一体その根拠はどこから来るのだろうか。こういう時、剣士というものはよく分からない生き物だと思う。少なくとも魔導師が絶対やらないような事を平気で言うのだから信じられない。
だが、セレナの心配は軽く流され、そのまま再び床へと下ろされた。
「さて……、いっちょやってみるとしますか」
 セレナを下ろしたアベルは、肩や首を動かして筋肉をほぐすと、先程まで間近で見ていた眉を上から下へと見渡した。
 太くて密度が高い。厚みもかなりあるのが感じられた。なかなか手ごわそうだ。
「ねえ、アベル!止めなさいよ!切れるかも分からないし…もしドリアードに当たったりでもしたらそれこそ取り返しが……!」
「大丈夫だって、そこで黙って見ていろ」
 必死で止めようとするセレナの頭をアベルは左手で軽く押して制する。その言葉が先程までの軽い調子と違って真剣味を帯びていたのでセレナはそれ以上言えなくなってしまった。それはセレナが今まで感じた事の無い気迫だった。
 アベルは深呼吸をして心を落ち着ける。瞼を閉じて、神経を集中した。
 全身が研ぎ澄まされていく感覚がする。緊張感と研ぎ澄まされた感覚、双方が入り乱れ、かつ静かに身体を支配していく。
 アベルは愛用の両刃の両手剣を引き抜き、構えた。相手は未知の繭。
「とりゃあ!」
 気合を入れた叫び声と共に、アベルは繭に向かって切りつける。剣は繭を切り裂き、斜めに大きな傷をつけた。
「よし、手ごたえ十分!」
 アベルは満足げに繭を上から下へと見渡した。巨大な繭に大きな斜めの傷がすっぱりと口を開けていた。
「後は……この先をどうするかだが……」
 アベルは繭に向かって傷口を調べようと手を伸ばした。
「ま、待って!私に調べさせて!」
 今までアベルの行動に驚いて言葉を失っていたセレナが、やっと我を取り戻してアベルを引き止める。ドリアードに呼びかけるのは自分しか出来ないからだ。
「ああ、じゃあまた肩だな」
 アベルはセレナの言葉に素直に頷いて、彼女に手を差し伸べる。セレナは目の前の青年をじっと見ていた。剣士というものは知っていた。昔から会った事はあるし、共に戦った事もある。助けた事もある。その体力の違いには驚く事も多かったけれど、今回はまた別の驚きだった。
 まだ、どこか少年の面影の残る青年だ。この顔はどこかで昔、見た事があるようにさえ感じるほど、好感度の高い人物だった。しかし、年下である上に新米剣士で、どこか頼りげない所が多く、セレナは護衛に現れた彼をしっかり護ってやらないといけないと思っていた。だが、あっさりとあの繭を切り開いてしまうその力は驚きだった。
 少し、彼への評価を変えなければいけないわね。セレナはそう思った。
 一方のアベルは、じっと自分を見つめてくるセレナに困った顔をした。また、何か文句を言ってくるのだろうか。そんな思いに駆られる。今まで、彼女から叱られるか馬鹿にされるかしかされていないような気がするのだ。
「……なんだ?」
「ううん、何でもないわよ。宜しくね」
 不安そうなアベルを軽く受け流すとセレナは彼に再び持ち上げるように催促した。元々そのつもりだったアベルは、何か釈然としないままセレナを持ち上げて肩に乗せると繭へと近づいた。
 近づいた繭は、切り開かれたせいか、前よりも脆い感触がする。セレナはドリアードに呼びかけることにした。とにかく、まずはドリアードの安否を確かめなければならない。
『ドリアード?大丈夫?』
 何度か呼びかけるが返事が無い。セレナは少し焦った。アベルが切り裂いた時に感じたのは繭だけが切り裂かれたというものだった。ドリアードはやられていない、そう感じていた。それは間違いだったのだろうか。
『……なにが起きたの?』
 必死で呼びかけるセレナに怯えたような小さな声が返ってきた。ドリアードだ。セレナは安堵の息を漏らした。一先ず無事だったようだ。
『繭を傷つけたの。あのね、どうしてもあなたに出てきて欲しいのよ。この傷口から出てこられる?』
 セレナは繭の傷口を触りながら、ドリアードに尋ねた。傷口は見事なまでに綺麗に切り裂かれている。その切り口は本当にすっぱりと切れていて、剣術の腕を改めて感じた。
 そういえば、前にクリスがエアガイア……戦士の村で新しい人材を発掘したんだって喜んでいたけれど……もしかして、それが彼?
確かにエアガイアは優秀な剣士が居る事で有名な村だ。村ぐるみでその鍛錬に力を入れているために、村人がそのまま兵士として戦えるのだとも聞いている。あの村の出身者であれば、このくらいの芸当は大したことではないのかもしれない。
それにしてもエアガイアだとしたら……私はつくづくあの村に縁があるのかしらね。
 セレナは傷口を見ているうちに再びドリアードではなくアベルの事を考え始める。そもそも、わざわざ心配性のクリスが護衛にと新人を遣したのだ。最初は自分に新人育成を任せるつもりなのかとも思ったが、そうではないのかもしれない。それにエアガイアと言ったら……セレナにとっては忘れられない思い出がある村だった。
 セレナは気づかれないように視線をアベルに落とす。あの時の少年も、今では彼くらいの年齢になっているのだろうか。元気にしているのだろうか。
『……繭が開いた?……理由はよく分からないけれど、せっかく来てくれたのですもの。私、外に出ますね。……お役に立てるか分からないけれど』
 ふいにドリアードの声が響いてきて、セレナは現実に引き戻された。慌てて、再びドリアードに向かって呼びかける。
『ありがとう。外で待っているわ』
 セレナは声をかけ終わると、アベルにも続けて声をかける。
「ありがとう、アベル。出てこられるみたい。下ろしてちょうだい」
「そうか、良かったな。じゃあ、ちょっと待ってろよ」
 セレナに催促されたアベルは、とりあえず上手くいったようだと内心安堵しながらセレナを抱えると下へと下ろした。下ろされたセレナは礼を言うと、すぐさま辺りを見渡す。
 ドリアードが現れるはずだ。見落としてはならない。
 ふっと心地の良い風がセレナとアベルを包み込み、その風が強くなる。二人が思わず目を閉じ、風が緩くなるのを感じてから再び目を開けると、そこには美しい緑色の髪を持つ美少女が立っていた。その肌は透けるように白く、緑がかっているように見えた。背もすらりと高く、長い髪が印象的で、神秘的な感じがした。
 これが……ドリアード?
 初めて見る存在にアベルは胸が高鳴るのを感じた。先程、セレナからドリアードは男性をとりこにすると聞いていたが、目の前の少女は顔立ちが整っていてとても美しく、その神秘的な雰囲気も手伝って、まるで吸い込まれてしまうようだった。これなら、取り込まれる男性が現れても不思議じゃない、アベルはそんな事を思った。
 だが、アベルの夢のような感覚も一気に褪めることになった。彼女が言葉を発したからだ。……何か言っているが、聞いた事の無い言語だった。それが現実感を取り戻させる。
 その言葉を受けて、セレナも返事を返す。……何を言っているのか、こちらも分からない。言葉の響きからするとドリアードの言葉と似ているような気もするのだが。
 アベルはセレナの肩をちょいちょいとつつく。
「……なあ、なんて言っているんだ?」
 だが、問われたセレナはうっとおしそうな顔をすると、アベルの手を払いのける。
「後で説明してあげるから今は黙っていてちょうだい!」
 凄い形相でにらまれてアベルは言葉に窮す。何か真剣な話をしているのだろうか。
 精霊の言葉が特殊なのは想像がついた。もし、ドリアードが人間に話しかける気があるのならば、きっとコンタクトの取りようがあるのだろうが、相手は同じ言語を話すセレナだ。だから彼女は自分の言葉で話すのだろう。
 そういう点で、精霊の言葉を話すセレナは凄いと言えるだろう。それだけ知識が豊富なのだろうか。
……もう一点だけ引っかかる。それは彼女がハーフエルフだからだという事。書物で得た知識として、エルフは精霊に近い種族で心を通わすことが出来るという。ハーフエルフである彼女にその能力が備わっていたとしても不思議な事ではなかった。彼女が、両親の思いを否定していても、それがしっかりと受け継がれているのは彼女自身にとっては皮肉ともいえる事なのかもしれない。活用はしっかりしているみたいではあるけれど。
 アベルに分かるのは、その語調の強弱くらいなものである。だが、会話が進行するにつれてセレナの言葉は厳しさを増し、ドリアードは今にも泣き出してしまいそうだった。
 ……セレナがドリアードをいじめているみたいだ。
 アベルはうかつにもそう思った。違うだろうという事は分かっているのだが、セレナは激しくドリアードを責め立てているようだった。そして、ドリアードは彼女の激しい追及に泣きながら、時には大きく首を横に振りながら話していた。
 よくは分からない。だけど、セレナが核心に近づいたのではないかという事は感じられた。ただ、状況は芳しくないようだ。それは彼女の表情が物語っている。
 セレナは激しい追及の手を緩め、大きなため息をついた。そして、アベルの方へと振り返る。その表情がとても真剣なものだったのでアベルは息を呑んだ。
「ねえ、アベル。あなた、呼ばれたって言ってたわよね」
「え……?ああ、ここに引きずり込まれた時の事か?呼ばれた…んだろ?」
 アベルはいきなり最初の時の出来事を聞かれて驚いたが、あの時の言葉を思い出す。助けを求めていたけれど、こちらに来るようにといわんばかりの雰囲気だった。そしてセレナにその事を話して、自分が呼ばれた事に気がついたのだ。
 しかし、分かりきっているはずの回答を聞いたセレナは深いため息を一つついて頭を重たく横に振った。
「……まいったわね。思っていた以上にやっかいよ」
 そう言われても、ドリアードの話した内容を知らないアベルからすれば何がやっかいなのかさえも分からない。
「あ、アベルは分かってなかったのよね。簡単に言えば……彼女の恋人がね、反乱起こしたのよ」
「反乱……?」
 話の内容が理解できず、アベルはさらに困惑した顔になった。とりあえず、今まで聞いてきた話を整理すると、彼女の恋人はおそらく元人間であろうという事くらいだ。しかし、セレナの話では同じ時を刻むために同意の下、そうなったはずだろう。そこで何故反乱等が起こるというのだろうか。
「……彼が……彼が悪いんじゃないんです!」
 今まで何を話しているか分からなかったドリアードがアベルにもはっきり分かる言葉で訴えかけてきた。彼女は必死な表情でアベルの腕を掴んで、泣きそうな瞳で懇願するように続けた。
「……彼が悪いんじゃないんです!私が……私がいけないんです。私が……私がもっと彼の気持ちを理解してあげられていたら……!」
「だから!それがどうだっていうのよ!悪いのはあなたじゃなくてその恋人なの!何回言わせればいいのよ。そんな男を庇った所で何の得にもならないのよ!」
 セレナは激しい調子でドリアードを叱りつけた。しかし、ドリアードの方も負けてはいない。必死に食い下がってきた。
「違います!彼は悪くないんです!私がいけないんです!」
「だから!あなたは関係ないんだってば!第一裏切られているじゃない!」
「裏切られたんじゃありません!彼は……彼は自由になりたいだけなんです!」
「それを裏切りって言うんでしょう!」
「違います!」
 だんだん激しい言い争いになってきていた。先程まで泣いていたはずのドリアードもその『彼』なる人物を悪く言われるのがたまらないらしく、だんだん怒り口調のセレナに対して対抗するようになってきた。それに対してセレナも負けずに叫ぶ。
 だが、話が全く分からないアベルには、この激しい女の戦いが何を意味しているのかも分からなかった。とりあえずその『彼』が反乱を起こしていて、それはドリアードいわく彼女のせいだという事になるらしい。
「だから……!愛だの恋だのそんな甘い事言っているからそうなるのよ!」
「そんな……!甘い事なんかじゃありません!私にとってはとても大事なことです!」
「甘いじゃない!そんな甘い事のどこが大事なのよ!」
 言い争っているドリアードの言葉が再び難解な精霊語に戻りセレナに突っかかる。それに対して彼女も再び精霊語で怒鳴り始めた。
 取り残されたアベルはより一層訳が分からなくなる。彼女達は一体何を言い争っているというのだろうか。
「……なあ、何がやっかいなんだ?」
 アベルはおずおずとそう尋ねる。そうでもしない限り、話が先に進まないのは明白なのだ。例え、話の首を折られたとセレナが怒り狂ったとしても。
 案の定、セレナは凄い形相でアベルの事を睨みつけた。だが、発せられた言葉は彼の想像したものとは全く異なっていた。
「アベル!分かってるの?あなたは被害者なのよ!何でそんなに呑気なの!」
「は?」
 あまりに想像していなかった言葉にアベルは目が点になる。まだ状況を理解していないというのに……何故被害者と言われるのだろうか。そういえば、さっきドリアードが自分に分かるように話しかけてきた時、彼女は『彼は悪くない』と言った。わざわざそう言ったのだから、それに関係しているとは思うのだが……。
「何で俺が被害者になるんだ!何がなんだか訳分からね〜よ!」
「訳分からなくないでしょうよ!重要な問題なのよ、それくらい分かりなさいよ!」
 本音を言ってみたのだが、肝心のセレナは完全に頭に血が上っているらしい。アベルがちゃんと状況を理解できていないのが分かっていないようだった。となると、少し当てに出来ないところはあるが、ドリアードの方が話が通じるかもしれない。
「なあ、あんた!どういう事だ?どうして俺が被害者にならなきゃいけない?」
 セレナだけでなくアベルにも詰め寄られて、ドリアードもさすがにたじたじとなる。そして、おどおどした調子でアベルを見上げた。
「……彼は、彼は身体が……肉体が無いんです。彼の生きた時間は人の寿命を遥かに超えていますから。だけど……彼は……人間に戻りたいんです」
 ドリアードの言葉を聞いて、アベルは嫌な予感がした。『彼』なる人物は肉体が無い。そして人間へと戻りたい。そして、アベルに呼びかけてきた声は『助けて』だった。
 もし、その『助けて』がこの樹から出して欲しい、人間へと戻りたいというものだったら……アベルがここに呼ばれた理由は只一つだ。
「……まさかと思うが……俺の身体を乗っ取る気なんじゃないだろうな」
「……残念ながら、そのまさかよ。だからやっかいだって言ってるんじゃない」
 青ざめるアベルにセレナが追い討ちをかけるようにそう言った。だが、ドリアードはそれでも訴えかけるように彼等に詰め寄った。
「……でも!でも、彼が……彼が悪い訳じゃないんです!」
「だから!さっきから何度も言ってるけど……」
「待て、セレナ。ちゃんと話を聞いた方が良いんじゃないか?
 少なくとも俺は、訳の分からないまま乗っ取られるのはごめんだしな」
 再びドリアードを追求しようとするセレナをアベルが制する。さすがに、渦中の本人が言う言葉には納得が言ったのだろう、セレナはこっくりと頷いた。
 アベルは真っ直ぐにドリアードを見据えると、重い口調で尋ねた。自分がどうして狙われるようになってしまったのか、その理由を知るために。
「……じゃあ、こちらの納得するように説明してもらおうか?」
 ドリアードは頷く。話し辛そうに目を伏せたが、それでも彼女はゆっくりと話し出した。
「……私は、数百年ほど前に一人の青年と出会いました。彼はケリーという名前の優しいけれど孤独な人でした。……疫病で家族を失っていたんです」
 ドリアードは悲しげな瞳でさらに言葉を続けた。
「私は彼に惹かれていき、彼も私を想ってくれるようになりました。そして、孤独だった彼は、私と共にずっと一緒に生きてくれると約束してくれたのです」
 ……そこまでは確かにセレナから聞いた話の通りだとアベルは思った。セレナは言っていた。両者承諾の上でそういう事になるのだと。ここまでは、きっと他のドリアードと変わらないのだろう。つまり、それから先に何かがあったのだ。
 ドリアードは当時の事を思い出したのだろうか、懐かしむような悲しむような目をすると、再びゆっくりと言葉をつむぎ始める。
「……でも、彼には心の奥にずっといつか家族を持ちたいという願いがあったようなのです。子供に囲まれて暮らしたいという願いが。私と一緒になるという事はそれは不可能だと分かってくれていたんです。だから、諦めていたのでしょう。だけど、私はこの樹で実をならし、自分の分身とも呼べる子供達を生み、旅立たせてきました。何故、私には子供を作ることが出来るのに、彼には作れないのか……疑問に感じるようになってしまったのです。当然と言えば当然でした。でも、私はそんな彼の思いに気がつく事が出来なかったのです。私にとって樹を新たに生み出すことはごく当たり前の事でしたから」
 聞いているアベルやセレナにとっては当たり前とも言いがたい話といえば話であった。しかし、ドリアードが植物の精霊である事を考えると…自分自身の分身を増やすという事は不思議な事ではない。むしろ普通とも言えるような事だった。勿論、そこまで考えが及んだのはセレナだけで、アベルには話が未知の世界だったのは仕方がないだろう。
「……とにかくそれがきっかけだったのです。元々家族が欲しいと望んでいる人でしたから……家庭を築きたいと、子供に囲まれたいと願っている人でしたから……だんだんと元の暮らしに戻りたいと願うようになったのです。しかし、彼も自分自身の身体がもう無いことには気がついていました。だから人間にはもう戻れないと諦めていたようでした。……だから、私は少し安心していたのです。まだ、彼と共に過ごす事が出来るのだと。だけど、ある時、当時の彼と良く似た青年が私の樹の前に通りかかったのです。そして、それを見た彼は……あろうことかその人に乗り移れないかと考えたのです……」
「……ここ最近、多発している神隠しね」
 沈んだドリアードにセレナは確信を込めてそう続ける。ドリアードはセレナの言葉に悲しげに頷いた。
「……でも、報告によると男女関係無いようなんだけど……」
 セレナは最初に受けた調査依頼を思い出していた。この森で人が行方不明になるという話だった。過去起きた神隠しの再来ではないかと地元の人は話していた。男性だけに限定されていれば、セレナも犯人はドリアードだろうと見当がつくのだが、いかんせん、消えた人間は性別、年齢に関連性は無かった。まるで無差別的に攫われているようだった。
 だが、ここまでのドリアードの話を聞く限りでは、ターゲットは男性の若者であるような印象があった。現在、そのターゲットになっているアベルも当てはまっている。どうも、その事が腑に落ちなかった。
「……いえ、今はもう、人間であれば誰でも良いみたいなんです」
「……それはまた……」
 アベルは苦笑いを浮かべるしかなかった。それだけ人間に戻りたいという願望が強いのは分かるのだが、だからといって無差別的に選ばれた方はたまったものではない。
 だが、アベルと違ってセレナはひきつった顔になった。
 実はセレナはこの神隠しと呼ばれる現象に遭う事を期待していた。原因に乗り込んだほうが早いと思っていたし、そちらの方が早期解決に繋がると思っていたからだ。だから、最初のうちは森の中を探索して回ったのだ。勿論この樹の周囲も。
 それなのに、自分は呼ばれなかった。後から自分を探しに来たアベルの方が呼ばれてしまった。その理由はアベルの話を聞いたときから見当はついていたが確信に変わった。
 ……私が人間では無いからね。
 セレナは己のハーフエルフの血を呪わしく思った。この血のお陰で良い事も悪い事もある。だが、久しぶりに酷い嫌悪感を感じた。こうして確信を持つとなおさらである。
「……あのさ、聞きたいような聞きたくないような感じなんだが……その攫われた人達はどうなったんだ?」
 アベルはドリアードにおずおずと尋ねる。それは近いうちの自分の末路かもしれないと思うと酷い嫌悪感に襲われた。だが、聞かずにはいられないのも本当だろう。
「……その、私は彼に反対してからこの繭に閉じ込められてしまったので詳しくは知らないのですけど……何度も繰り返している所をみると……」
「適応しなくて、肉体が崩れたりして……もう生きてはいないかもしれないわね」
 ドリアードに続けてセレナが確信に近いような言葉を述べた。つまり、魅入られたが最後、生きてはいられないという事だろうか。
「……一度は選んだ道。それを望んだのは自分でしょうに……許せないわ」
 セレナは小さい声ながらも、怒りに満ちた言葉を発した。その表情は険しい。
 何故、皆、こう自分勝手なのだろうか。
 どうして、もっと先の事を考えないのだろうか。
 自分が幸せになるなら、誰かを犠牲にしても良いのだろうか。
 そんなはずは無いのだ。絶対に。
「だから…彼は、ケリーは悪くないんです。私が……!」
「それは分かったから!」
 また彼を庇おうとするドリアードにセレナは厳しく言った。
「それは分かったから、あなたはどうしたいの?今はもう自由の身よ。あなたは望む事が出来る。彼が悪くなくて、あなたが悪いというのなら、あなたは一体どうしたいの?彼をどうしたいの?」
 セレナの口調はどこまでも厳しかった。そしてドリアードに決断を促していた。
 庇うのならば、自分のせいだと言うのであればどうしたいのかと。
「……私は……私は……私は……」
 ドリアードは戸惑っていた。戸惑い続けていた。どうするべきなのか、彼女は気がついているようだった。しかし、その決断を下せずにいるように見えた。
「……私は……私は」
 ドリアードは再び言いよどむ。その結論を言うのが辛そうだった。だが、彼女は決意した。心に深く決めた、そんな表情だった。
「……私は、私は彼を救いたい!
 だから……だから彼を止めなきゃ……、ここから解放しなきゃ……!」
 セレナはドリアードの答えに満足そうに頷いた。それは彼女が求めていた答えだった。
「大丈夫よ。私はこの事件を解決するためにここに来たの。私がなんとかするわ。アベルを殺させはしないし、あなたの彼も解放してあげる」
 セレナはきっぱりとそう言い放った。その表情は自信に満ちていた。何者にも邪魔はさせない、そういう顔だった。そして、自分一人で解決するといった顔だった。
 それに対して不満を覚える人物が居た。アベルだ。
 アベルがここに来た目的は彼女を探しだし、その力となる事。探し出す目的は達したし、今の所は協力体制にあるといっても良い。
 だが、状況は変わってきた。狙われているのは自分だし、その解決をしようとしているのはセレナ一人だ。それは納得が出来なかった。自分が関わっている問題だ。自分でなんとかしなくてはいけない。
「セレナ!問題があるのは俺だ。俺がなんとかするしかないんだよ!」
 アベルの訴えに、セレナはにっこりと微笑んだ。
 その微笑みはどこかで見た覚えがした。記憶の中の人物と重なる。
「大丈夫よ、私が何とかする。あなたも護る。
 心配しないで。私には奇跡の神様がついているの」
 その言葉を聞いてアベルは言葉を失った。
 かつて、そう言った人がいた。奇跡の神様がついているのだとそう言った人物が。
 アベルの脳裏に記憶が次々と高速で巻き戻る。
 彼女は『私には奇跡の神様がついているの』そう言った。
 彼女は金色の髪をしていた。青い瞳をしていた。年の頃は自分と対して変わらなかった。
 セレナはハーフエルフだ。十年やそこらではそこまで成長しないのだろう。実際、今の十二、多く見積もっても十四歳くらいにしか見えない彼女だ。そのまま止まっているとはさすがに考えられないし、ゆっくりと成長を続けていってその状態なのだろう。
 まさか……まさか彼女はあの時の……両親を、村を救ってくれた少女なのだろうか。
 アベルはセレナの手をぎゅっと握った。
 強くなろうと決めたのは、彼女の力になれるようにと思ったからだ。
 あの時のように、追いかけるしか出来ないような事が無いようにと思ったからだ。
 力も強くなった。剣術も随分上達した。経験も積んできた。
 ……少なくとも以前より非力ではない。以前よりはましになったはずだ。
 だから、彼女を一人で行かせたりは絶対にしない。
 アベルは驚いてこちらを見るセレナの顔を真剣な顔つきで見つめた。
「……俺も行く」
 低く意思の強い声。セレナもその声に押される。断りきれない強い決意を感じていた。
 セレナはゆっくりと頷く。そして柔らかに微笑んだ。
「……分かったわ。ありがとう」
 その返事ほどアベルにとって嬉しい事は無かった。にっこりと笑い返す。
「ああ、任せておけ」


『……ここは樹の中心に当たるところで……いくらケリーがこの樹を操っているとはいえ、ここに干渉してくることは出来ないのです。あの繭もあくまで私を護るためにこの樹がしてくれたことですから』
 ドリアードはゆっくりした口調で内部の説明を始めた。
 アベルは近くで眠っている。半分無理矢理セレナが眠らせたのだ。付いていくのならば、体力消費も激しいはずである。剣士である彼には何より休息が必要だと、ここが安全であることを確認してから眠らせたのだ。嫌だというのを無理矢理に。
 セレナは今後の方針を立てるために、ドリアードから必要な情報を集めていた。こういう場合、本体であるドリアードが味方であることは心強かった。
『つまり、ケリーはこの樹を操るところに居るのね。なんだか内部が人体化されているみたいだけど……ここは心臓部に当たるところだから……妥当なセンで脳かしらね』
『多分そうだと思います。まさか人間のような構造にまでなってしまっているとは思ってもみませんでしたけど……』
『……あなた、随分長い間あの繭に居たのね』
 自分の樹の構造まで変わっていると知って驚くドリアードにセレナは哀れんだ顔でそう言った。彼女の言い分が正しければ、この樹は随分前から統率者が変わっていたことになる。内部構造すら変わってしまうほどの長い時が。ただ、行動に出たのが最近だということを考慮すると、自分の操りやすい状態に変えてから行動に移したのかもしれない。そう考えると、相手もかなりの策略家である。より確実性を狙おうとしているのだから。
『……ええ、もう随分彼の姿を見ていません』
 ドリアードは寂しくそう言った。彼女が永遠の時を共に生きようと願った相手は、自分の元から離れる事を選んだ。彼女の力までも奪って。
それは悲しい事なのだろう。セレナにはどうしても分かりかねる心情ではあったけれど、ドリアードが悲しんでいる事実だけはよく分かった。やはりこんなに悲しませる相手を許すことは出来ない。
『……セレナさんは彼をどうするつもりなのですか?』
 ドリアードは悲しい瞳のまま尋ねる。その答えがどんなに非情なものであっても受け入れる。そんな強い意志も篭った瞳だった。
 セレナはそんな彼女に大丈夫よと微笑みかける。
『言ったでしょう?あなたの彼も助けてあげるって。要は……ここからの解放でしょう?それにはあなたの力が必要だけど、彼の望み通りに人間に戻ることは出来ないわ。だから、あなたが開放をするならば、彼を転生させる呪文を使おうと思っているの。再び、人間へと生まれ変われるようにね。彼の犯した罪は許されるものではないけれど……行方不明者がどうなったのかの確信も分からないままだし……彼等が生きているのだとすればやっぱり単純に倒すわけにもいかないのよね。それに、そうしたところで根本的に解決するものでもなし……』
 セレナの優しい言葉にドリアードは嬉しそうに目を細め、そしてその大きな瞳にいっぱいの涙をたたえた。嬉しかったのかもしれなかった。
 しかし、セレナはドリアードに強い口調で付け加える。
『だからといって、あなたがちゃんとやってくれなかったりしたらそれも無理なんだからね!最悪の時は、強制的に滅ぼさないといけないかもしれないし。あなたの恋人をどうするかは結局あなた次第なんだからしっかりしてよね!』
 セレナはびしっとそう告げた。ドリアードもそれにゆっくりと頷く。
『……ところで、この内部には白血球みたいな抗体システムがあるみたいなのよ。あれがとてもやっかいでね。あなた、それをどうにかすることは出来る?』
 セレナは今後の進軍にもっともやっかいな相手を思い出していた。こちらの攻撃に対して耐性さえ備えてしまうやっかいなアメーバ状の物体。本体に向かっていくとなると、その攻撃が激しくなるのは容易に想像がつく。それは難題だった。
 ドリアードはどうだろうという顔をして首をかしげる。
『……多分、大本は私自身ですから……仕組みそのものはすぐにはどうにもならないかもしれませんけれど、止めることくらいは出来るんじゃないかと思います』
『ありがと。それだけで十分よ。大助かりだわ』
 セレナはドリアードの返答に機嫌よく答えた。あのやっかいなアメーバがどうにかなるだけで大きな差があった。アベルの体力の消費も少なくなるし、自分自身の魔力の温存にも繋がる。それは本当に有難い事だった。ドリアードを見つける事に重点を置いて捜索したのは正解だったと強く思った。
『よし、あとは……そのケリーとやらに対面してみないとね。あなたもここに居たから、どうやって身体を奪おうとしているのかまでは詳しく知らないんでしょう?』
『ええ。そればかりは私にもさっぱり……』
 そう、目的地までは何とかなるのだが、その先がかなり不透明だった。
 相手がアベルの身体を乗っ取ろうとするのだけは分かっている。だが、どのようにしてそれを実行に移そうとするのかが分からない。ドリアードが彼を解放しようとしても、彼がその事に不安を感じて抵抗しないともいえない。全てが上手くいくとは限らなかった。
 本当だったらアベルはこの場所に置いていきたいのだが……先程の彼の様子ではとてもじゃないが置いてなどいけないだろう。それほど、先程の彼には説得力があった。
 あんなに真剣に言われるとセレナもさすがに断れなかった。
 そう、彼には彼女がノーと言えない何かを持っていた。それが何かまでは分かりかねるのだけれども。
 そうなると……後は賭けだろう。どう転ぶかは向かってみないことには分からない。
『……ねえ、セレナさん。彼の元に向かうのはあなたが一番危険なんじゃないでしょうか?邪魔をしようとしているのだと分かれば、彼は容赦しないでしょう。ここに長く彼も暮らしていますから、精霊並みの力は兼ね備えています。しかもここは私の中。彼にとっても有利な場所です。私はこの樹の本体ですから殺される事は無いでしょう。アベルさんも最終的にどうなるかは分かりませんが、しばらくは彼にとっては目的の人間です。そうなると、あなたが一番危険だと思うんです……』
 ドリアードは心配そうにセレナにそう話しかけた。その緑の瞳は心からの心配の色をたたえていた。それに対してはセレナも強気の返答を返せなかった。
 そう、ドリアードの言うとおり、一番邪魔者である自分が狙われるのは間違いないだろう。大丈夫とは言いかねるが……それでも何とかするしかないのだ。
『そうね、危険ではあるけれど……きっと大丈夫よ。
 私には奇跡の神様がついているから……きっと大丈夫』
 そうセレナは言って微笑んだ。それは半分は自分に言い聞かせるものだった。
『……さっきもそう言っていましたよね。奇跡の神様がついているって』
 ドリアードはセレナとアベルのやりとりを思い出す。その時も、彼女はそう言っていた。奇跡の神様がついているのだと。その後のアベルの様子が少しおかしい事にドリアードは気がついていたが、セレナの方が気にしていないようなのでそれは一先ず黙っておくことにした。話がややこしくなっても困るからだ。
『奇跡の神様の事?ん、これはね、よくお爺様とお婆様が私に言い聞かせてくれたのよ。私みたいなハーフエルフが生まれる事自体奇跡的なものなのだと。だから、私には奇跡の神様がついているって、そう教えてくれたのよ』
 セレナは瞼を閉じて、祖父母の言葉を思い出していた。
 不遇ともいえる境遇で生まれた孫に対して祖父母はそう言ってくれた。それはセレナの支えになっていた。彼女自身も信じる事が出来た。奇跡の神様がついていてくれるという事を。実感する訳でもなかったが、そう思う事が支えになっていた。
 だが、今のセレナを支えているものはもう一つだけあった。それは、奇跡の神様だけの支えでは足りなくなった時に、新たに増えたものだった。
 そう、だからしっかりして頑張らなくっちゃ。
 セレナは自分にそっと言い聞かせて、瞼を開けた。緑の幻想的な辺りの様子が現実感を無くしてしまいそうでセレナは苦笑した。夢でも見ているようだ。ここに居る事は。
『……もう一つ、聞いてもいいですか?』
 遠慮がちにドリアードはセレナを見た。セレナはその言葉に頷く。
 ドリアードは視線を近くで眠っているアベルに移してから、セレナを見つめた。
『……あなたは……私に対して愛や恋なんて甘いって言いましたよね?彼は?彼は……あなたにとって大切な人なんじゃないんですか?』
 ドリアードの質問はとても穏やかで、そしてとても優しいものだった。まるで、そういう思いを全て否定するセレナにその大切さを説くかのように感じられた。
 だが、その言葉にセレナは否定するしかなかった。首をゆっくり横に振る。
『残念ながらそういう関係じゃないわ。彼とはさっき知り合ったばかりだし……大切に思うほど付き合いも長くはないわ。だけど、彼は私の部下とも言える存在だし……私がついている限り、私がしっかり護ってあげたいの。知っている人が傷つくって気分が悪いものよ』
 セレナはアベルを見つめながらそう言った。短い付き合いだ。この樹に入り込んでから出会ったばかりの人物だ。……だけど、失いたくないと思わせる存在だった。そこには今までの色々な出来事も含まれているのだろう。
 それに、誰かを護ろうとする気持ちは好きだ。誰かを救えるのだとしたら救いたい。
 それが新しい生きがいへと変わったのだから。変わっていったのだから。
『……でも、あなたには大切な人が居ますよね?私には分かります。あなたは言葉で否定していても、それを確かに肯定している。感じるんです』
 ドリアードは優しい笑顔でそう言った。その言葉説得力があってセレナは苦笑する。
 恋人に彼女は裏切られたとも言えるのに、それでも彼への想いは変わらない。そんな彼女だからこそ言えるのだろうか。
『ま、ね。大切な人なら居るし、別に恋だの愛だのを恨んでる訳でも無いけど……ちょっと理解できないだけよ。見ての通り混血児だと、ちょっと複雑な思いもするから』
 セレナは苦笑しながらそう言った。それは本当の気持ちだったからだ。
 この血で悩んだ事は数え切れない。それに目に見えて分かる苦痛もあった。どうして良いのか分からなくなった事もあった。
 だけど……答えを見つけたのだ。大きな答えを。
……そうね。私にも忘れられない事と忘れられない人が居るわね。
 あの時、答えをくれた人が居た。それが、今の自分の始まり。
 ……もしかしたら、それはドリアードの言う『彼』への想いに近いものもあるのかもしれないし、全然違うのかもしれない。ただ、確かに忘れられないかけがえの無いものだった。
 そういえばアベルはあの少年に似ているような気がした。そう思うとセレナは懐かしい思いで一杯になった。

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