家のドアを開けると、スープの香りがした。その香りに導かれるように、黒髪の男は家の中を進んでいく。そして、台所で食事の支度をしている薄紫色の髪の少年を見つけた。
 男に気がついて、少年は嬉しそうに微笑む。
「父さん、おかえりなさい」
「ただいま、ウィル。アリアは居ないんですか?」
 息子に優しい笑顔を返すと、カームはそう尋ねた。返ってくる言葉は予想がついていたけれど。
「姉さん?姉さんなら出かけるって朝早くに出て行ったよ」
 予想通りの言葉にカームは頷く。そんな予感はしていた。
 だが、状況がよく分からない息子は不思議そうな顔をした。最近、姉は父と何かがあったらしく、その関係が微妙になっているのを感じていた。だが、その原因を知る事も出来ず、尋ねる事も出来なくて、どうして良いか分からない所があった。
 そんな息子の様子に気がついたカームは優しく話しかける。
「今日は調子が良さそうですね」
「うん、ここの所ずっと調子が良いよ」
 父の言葉にウィルは嬉しそうに微笑んだ。彼は父親がいかに自分に対して気にかけてくれているか知っていたし、それに感謝していた。留守がちなのは寂しくもあるが、それでも今の生活に満足していたから。
「あ、おじ様、おはようございます!」
 ひょっこり玄関側のドアから短い紫の髪の少女が顔を出す。カームは突然現れたその少女に驚いたが、その顔を見て微笑んだ。
「おはようございます、カーラちゃん。今日も元気そうですね」
「うん、今日も元気だよ!」
 明るくカーラはそう答える。よくウェルステッド一家の中に混ざっているカーラはその元気さから、いつの間にか皆その元気を分けてもらえるような気になっていた。家族の一員だと言っても過言ではなかった。
「カーラ、もしかして朝ご飯まで食べに来たのか?」
 呆れた顔でウィルがそう言う。だか、カーラはそれに対してへこたれる事無く、元気にきっぱりと言い切った。
「うん!朝の運動してきたら、おなかが減ったし!」
 すっぱりきっぱりと言い切るカーラにウィルはより一層呆れた顔になり、カームはその様子を微笑ましく見ていた。
「ええ、是非食べていって下さいね」
「わ〜い、おじ様、話が分かる!」
 カームの言葉にカーラは嬉しそうに笑った。本当に嬉しくてたまらないといった表情だ。
「……父さんも姉さんもカーラには甘いんだから」
 ウィルはぶつぶつ言いながらも、二人分用意していた朝食に、もう一人前加えようと皿を用意し始めた。それを見て、カームは慌てて声をかける。
「あ、ウィル、私はすぐに出かけますから良いですよ。
私の分をカーラちゃんにあげて下さい」
「え?でも父さんは……」
 食事を取らないという父親に、ウィルは困った顔をする。いつもしっかりと食べるように言われ続けている彼にとって、朝食を食べないという行為は理解しにくかった。
 そんな息子の思いを分かっているカームは優しい笑顔で言葉を続ける。
「大丈夫ですよ。もう、研究所で済ませてきましたから」
「あ、なんだ。そうなんだ」
 食べてきたという言葉にウィルは安心した顔になる。自分が身体が弱いと、どうしても人の健康も過度に気にするようになってしまうのだ。
「ああ、ウィル。今日は体調が良いのでしたらお願いがあるんですけど」
「何?俺で出来る事なら何でもするよ」
 珍しい父からの頼みごとにウィルは嬉しそうな顔をする。いつも迷惑をかけてばかりいるので、逆に力になれるというのなら、それ以上に嬉しい事は無かった。
 息子の嬉しそうな顔に、父も笑顔になる。
「今日の夕飯、一人招こうと思うので…余分に作って貰えませんか?
 そうですね。せっかくですし、カーラちゃんやエラン君も招いて…賑やかな食事にしましょう」
「……と言う事は六人分だね?うん、分かったよ。美味しい食事を用意しておく。
 父さんも気をつけて行ってきてね」
 カームの願いにウィルは笑顔で頷く。
「わ〜!今日の夕飯、今から楽しみだ!」
「……カーラは食べる時はいつも楽しそうじゃないか」
 隣りでその話を聞いていたカーラも、今日は賑やかな夕飯だと大喜びをしている。それを見て、ウィルがやれやれとため息をついた。
カームはそんな彼等の姿に優しく微笑んだのだった。


 その場所は良く知っていた。
 カームから引き離され、アルージャに移ってからは実践訓練ばかりされた。
 この遺跡にはよく連れてこられたものだった。
 元は真っ白の石で作られた神殿だったのだろう。リフラール遺跡は、今ではコケやツタに覆われ、その外壁も風食により劣化していた。
 ここを見ていると過去の事を思い出す。
『どうした、遅いぞ!』
『この程度の事も出来ないのか!』
『一向にデータの向上が見られないな。所詮出来損ないか』
 よく投げつけられた言葉だった。
 アルージャの魔導師達は研究熱心な者達が多かったが、その反面何でも実験材料としてしか見る事が出来ず、ラディスも『実験体』として扱われてきた。
 様々な訓練を強要され、成果が出ないと機嫌が悪く、扱いも悪くなった。その一方で、良い結果が出たとしても当たり前のように思って、やはり彼を人間として見ていないようだった。
 あそこで感じた事は自分が『物』だという事だった。
 カームが幼い頃から、自分の生い立ちについて話してくれていたおかげで、その状況にもある程度理解は出来たが、カームのような人の方が稀である事を知った。
 そう、自分を生み出した人達は……このように人間ですら物として見るのだと。実験体はどこまでいっても実験体なのだと知った。
 だが、用意してくれたプログラムのお陰でラディスは実戦経験も積み、どんな場面でも冷静な判断を下せるようになった。扱いが苦手だった魔法も確実に操作出来る様になり、今まで扱ったことの無かった武具についても身体で学んだ。様々な知識も詰め込まれ、いやがおうにも博識になった。
 結果的には……一人で何人分の事が出来る人間になった。
 そう、当初の計画のように。最高の人間を作るために。そして……完璧ではないにしても、彼等はラディスをより優れた人間として作り上げたのだ。
 自分と人との違いは感じていたし、その後、研究所を離れて現地訓練としてアルージャの騎士団に入れられた時も改めて自分が人と違う能力を持っている事を実感した。
 人によっては怪物だと思うらしかった。
 使う魔法は、優秀な魔導師の放つ魔法の少なくとも三倍は威力が高かった。一通りの武器も扱えたし、体力も精神力も上回っていた。強大な力を持っているラディスに畏怖さえ覚える者も少なくなかった。
 だが、例え『物』だとしても、ただの『実験体』にすぎなくても……確かに自分はここに居るのだ。こうして生きているのだ。それは間違いの無い事実だった。
 分かっている。ロキルドが辿った道も同じだろう。
 彼の方が優秀だった。それだけ期待も持たれていただろうし、良い思いだけしていたとはとても思えない。
 だから彼は魔導研究所を狙うのだ。自分を作り上げた者達に復讐するために。
 自分は『物』でも『実験体』でもないのだと知らしめるために。
 ロキルドの言葉を思い出す。
『君なら僕の動機はわかりそうなものなのに』
 そう、分かる。痛いくらい分かるのだ。
 同じ人間であるはずなのに、人間として見て貰えない辛さは知っている。分かっている。
 だからこそ、彼はわざわざこの場所を選んだのだろう。
 自分にこの思いを再び認識させるために。そして、同じ思いをさせるために。
 それでも……それでも俺は。
 ラディスは遺跡を見上げ、そっと目を閉じた。
「それでも俺は……彼等を護ると決めたんだ」
 自分自身に言い聞かせるようにラディスはそう呟く。
 そう、それでも決めたのだ。彼等を護ると。
 例え人として見てくれなくても、皆に恐れられたとしても。
 それでも……自分を認めてくれる人が居るならばその人を護りたい。
それが自分の生きる道なのだとラディスは信じて疑わなかった。
そう、だからこそロキルドを止めるのは自分しか居ないのだと分かっていた。
彼を道を再び元に戻すのは……自分しか居ないのだと。

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