『その距離』


「ラクチェ」
 泣きそうな時、そう声をかけられると、いつも何故かもう大丈夫なような気がした。
 私の泣き言を聞いては優しく慰めてくれて、最後には温かな手で頭を撫でてくれた。
 ほとんど年の差も無くて、妹が居るといってもずっと下で、それでも何だが誰より兄のような気がして安心できた。
 私と彼の距離は、いつもそうだった。
 私にとって彼は兄のようであり、彼にとっては妹のようであると。
 小さい頃からそうだったし、大きくなっても変わらないと思っていた。
 ずっと変わらないのだと、何の根拠も無く信じていた。
 そう、彼が居なくなるまでは。


 穏やかな風が吹いていた。
 あたり一面、綺麗な花が咲き乱れていて、春の到来を告げていた。
 ここを見つけたとき、ラナが喜ぶだろうと思った。ラナの笑顔はラクチェの宝物だった。そう思ったらいてもたってもいられない。
 早速腕を引いて、彼女を連れてきた。そして、彼女はラクチェが望んだとおりの笑顔で微笑んだ。
「うわあ…、綺麗…」
 ラナは満面の笑みで微笑む。嬉しくて仕方が無いといった顔だった。
 北に位置するティルナノグの春は遅い。花が咲き乱れるのも、オイフェやエーディンの話からすると遅いようだった。イザーク出身のシャナンでさえ遅く感じるらしく、土地の位置による気候の違いは話の上では知っている。だが、ティルナノグしか知らない彼女達には、遅かろうと早かろうと春の到来には変わりは無かった。
 ここの所、ラナは落ち込み気味だった。実際、ラナだけではなく皆元気が無かった。
 原因は単純で…春の知らせを聞くと共に、オイフェがレスターとデルムッドを連れ出し、近隣の様子を見に出かけてしまったのだ。シャナンが言うには、世の中が大きく流れてきているらしかった。オイフェ達が出かけたのもそのせいだと聞く。
 特に一番年下のラナは、実の兄と幼馴染、そして父のように思っていた人の不在は大きく堪えたらしく、塞ぎがちになっていた。ラクチェやセリスやスカサハはラナが居るからしっかりしないといけないという思いが先行していたが、やはり末っ子にあたるラナは、その寂しい思いがストレートに出てしまうようであった。
 ラナに早く元気になって欲しかった。
 ラクチェはそれだけを思って、何か彼女が喜んでくれるものを探した。
 そしてやっと見つけ出したのが…この花咲き乱れる丘だった。
 嬉しそうに花を見つめるラナにラクチェは安心する。
 普段はラナの方がしっかりしているんじゃないかとも言われるが、こういう時こそ姉貴分である自分がしっかりしないといけないのだ。
 そう言い聞かせていたからこそ、ラナの笑顔に酷く安堵した。
 いつも、彼女の事を気遣っている、もう一人の存在が居ないからこそ余計なのかもしれない。
「……レスター兄様達も、こんな花を見ていたりするのかしら」
「そうねえ、どうだろ。ここの春って遅いらしいしね〜。もっと綺麗な花見つけてたりするかもね」
 ラナの言葉にラクチェは笑いながら答える。
 そう、彼らは今、どうしているのだろうか。
 一緒に居るのがオイフェだから、心配する必要もないのかもしれないけれど。
 異国の地に居るはずの彼らは一体どうしているのだろう。
 心配する必要は無いと思ってはいても、そう考えてしまうと胸が押される。ラナが笑ってくれた事で、気が楽になってしまったから、今まで襲ってこなかった思いがラクチェを覆った。
 一人一人の顔を思い出す。つい先日までは毎日見ていたというのに。
「……レスターとかどうしてるんだろ。オイフェ様達の足を引っ張ってなきゃ良いんだけど」
「ラクチェ、兄様が心配なの?」
 ラクチェの言葉にラナが驚いた顔をしてそう問い返す。レスターは皆にしっかり者と言われるくらいの人間なので、ラナはラクチェの言葉が意外だった。
 ラクチェは花の中にどさっと腰を下ろして、空を仰ぐ。淡い青色の空が目にしみた。その青色がなんとなくレスターの目の色を思い出してしまう。青というよりは蒼に近い、その瞳を。
「……だってさ、レスターってしっかりしているようで、結構ぼ〜っとしてたりする事あるじゃない。何考えてるんだか知らないけどさ」
 そう、何を考えているのだか知らないが、レスターはぼんやりと何かを考えている事が多かった。妹のラナもそういう癖があるので、おそらく血のせいなのだろう。
 その言葉を聞いて、ラナも思い当たる節があったらしい。
 ラクチェの隣りに腰を下ろすと、こっくりと頷いて笑った。
「ふふ、そういえばそうかも。
 そんなこと、スカサハも言っていた気がする。旅立つ前にそう言われて兄様が困った顔してたもの」
「スカも言ってたの?……ああ、こりゃ決定的ね」
 スカサハまで同じ事を考えているとは思いもよらなかったが、揃って同じ事を思う人がいるなら決定的だろう。それが元で痛い目にあっていなければ良いのだが。
 顔をしかめるラクチェにラナがその手を握る。
「でも大丈夫よ。デルムッドがしっかり見張っておいてくれるって言ってたし」
「……まあ、デルムッドがそう言うなら心配ないかもしれないけど……どっちが年上かわかりゃしないわね」
 そう言ってラクチェとラナは顔を見合わせて、笑いあった。
 実の所、あまり心配していなかった。
 いくらレスターがぼんやりしている所があろうとも、しっかりしているのは二人とも承知の上だ。それはスカサハもデルムッドも同様だろう。ただ単に笑って話の種にしたいだけ、それだけなのだ。
 ラナが握ったままのラクチェの手を両手で包む。そしてラクチェの顔を見上げた。
「ねえ、ラクチェ。兄様の事が気になるの?」
 ラナにそう問われて、ラクチェは困った顔をして、笑った。
「……まさか」
 ラクチェの答えに何故かラナは少し残念そうな顔をしたが、ラクチェはそう返すしか上手い答えが見つからなかった。
 本当ならラナに隠し事などしたくも無いのだが、こればかりはさすがに言えそうになかった。

 本当は…ラナに負けないくらい寂しがっている事を悟られたくなかった。
 彼女の前では、素敵な姉貴分で居たいのだ。
 3人が居なくなって…ラナが落ち込んだとき、何が出来るか一生懸命考えていた。
 スカサハにもセリスにも相談出来なかった。
 セリスは友達だけでなく、オイフェという彼にとってかけがえの無い人が居なくなったために、表向きは明るく装っていたが、精神的には参っているのが分かった。
 スカサハは居なくなってしまった友の分もと、仕事の分担を自ら進んで増やして必死にこなしていたが、それは寂しさを紛らわせようとしている姿であるのは知っていた。
 シャナンはシャナンで、オイフェの分もと思う気負いもあるように感じられるし、何か別の事にも気を取られているようだった。とても相談できそうな感じでは無かった。
 エーディンはここの事だけでなく、この所より切迫する帝国軍の迫害に、町を訪れては救済活動に当たるようになっていて、とても話せる余裕は無さそうだった。
 そう、ラナを助けたくても手段が浮かばず、相談したくても皆、精一杯だった。
 ラナに声をかけても今ひとつ元気の無い反応で、元気付けようと思っても、全てから回りで。
 泣きそうな思いを必死で抑えていた。
 いつもなら…、そういつもなら気が付いてくれる人が居た。
 必死になっている自分に気が付いて、手を差し伸べてくれる人が居た。
 優しく声をかけてくれて、大丈夫だと言ってくれる人が居た。
 ……なんで居ないのよ……。
 そう呟いては泣きそうな気持ちを必死で抑えていた。
 みんな一緒だから歯車が動くのに。
 みんな一緒じゃないと歯車は動かないのに。
 寂しいというよりはむしろ、居ない事に対しての怒りにも近い思いがあった。
 ……何で一番居て欲しい時に居ないのよ、馬鹿……。
 激情家の自分の特性はある程度は理解しているつもりである。
 だから、空回りし始めたら空回りし続ける事も承知していた。
 こうやって、居ない人に八つ当たりして、どうしようも無いことに怒りを覚える事も、無駄と分かっていてもせずにはおれなかった。
 そういえば居なくなる前に彼は妙な事を言っていたのを思い出した。
『ラクチェ、悩んだ時は大好きな人の事を考えると良いよ。その人の笑った顔を思い浮かべれば良い。きっと答えが見えてくるよ。
 ラクチェならきっと大丈夫さ』
 言われた時は意味が分からなかった。
 彼は自分が今、こうして悩む事を最初から分かっていたのだろうか。
 だけど……置いていかれた言葉がどんなものであっても居なければ意味が無い。
 ……今、言ってくれないと分からないよ、レスター。
 そう言って涙を抑える。
 だけど、沈んでばかりはいられないのだ。一生懸命考える。
 大好きな人。大好きな人。一番大好きな人。
 そう、大好きな大好きなラナに笑って欲しいのだ。
 ラナを喜ばせよう。そうしたらきっと笑ってくれるはず。
 ……大丈夫って言ったの、信じるからね。
 そう信じて……そう信じて頑張ったのだ。
 そして……花咲く丘を見つけ、ラナは笑ってくれた。
 もう、大丈夫。
 そう思った。
 大丈夫、きっともう彼に泣きつかなくてもやっていける。
 私一人でも、ラナを護れるのだから。
 だから、ラナがレスターの事を気になるのかと聞かれて戸惑った。
 気になる?
 気にならないといったら嘘になる。
 だけど、私は距離を変えたのだ。
 もう、依存しないように。
 離れていても大丈夫なように。
 そして今度は私が頼りになれるように。
 だから、兄のような存在から幼馴染へ、その距離を変えたのだ。
 そう、依存する距離ではなく、頼りあえる距離へと。
 だから私はとりあえず、遠慮なく思いっきり彼の事を心配する事にした。
 それが私と彼の距離が変わった証だとも思ったから。



 それから数ヵ月後。
「……何だよ、ラクチェ」
 じ〜っと自分の事を見つめる彼女に気が付いて、青い髪の青年は困った顔をした。
 彼女とは先程、久しぶりに再会したばかりである。まだ、本格的な行軍は始まっていないらしく、本格的に攻められる前に合流できたのは幸いだった。
 じっと自分の事を見つめていた黒髪の少女は、相変わらず自分を凝視したままである。
「……髪が長くなった」
「……そりゃあ、切ってなかったからね」
「…………元の長さに切ればいいのに」
「何が言いたい、何が」
 ラクチェの訳の分からない質問にレスターは戸惑う。彼女の言いたい所がさっぱり分からなかった。付き合いは長いし、とっぴな行動には慣れているのだが……しばらく離れていたせいで、この行動がどこから繋がっているのかが全然分からない。
 だが、ラクチェは再会してから、じ〜っと自分を見たままなのだ。それだけは間違いの無い事実だった。
 訳が分からず、ラナに視線を送るが、ラナはその様子を少し困ったような、それでいて楽しそうな顔で見ていた。……どうやら助け舟になってくれそうに無い。
 ラクチェの顔がどんどん不機嫌になっていくのが分かった。
 ……一体何が彼女の気に障るのだろうか。再会早々、火の粉を被るのも気がひけた。
 せめて別の人の所にでも行こうかと思うのだが…皆、ラクチェの様子がおかしいせいか、遠巻きに見ているだけである。
 ラナが駄目ならスカサハに……と思うが、彼も苦笑いを浮かべたまま、我関せずといった感じだった。
 居ない間に何かあったのだろうか。
 だけど、この状況から分かる事は、彼女にとって自分が気に障る存在だという事だけだった。
「……えっと、俺が帰って来ない方がもしかして良かったのか?」
 所在をなくしつつあったレスターが何気なく呟いた言葉に、ラクチェから鉄拳が飛ぶ。
「〜〜〜〜〜っ!!」
 腹に思いっきり鉄拳を食らって、レスターは屈み込む。
 それを見下ろしながら、ラクチェは引きつった顔をした。
「そんな訳無いじゃない!ずっと心配して待ってたんだからね!!」
 さすがに見ていられなかったのか、ラナが慌てて兄の下に駆け寄った。大丈夫と言う兄に、ラナは安心して微笑んだ。
「あのね、兄様。ラクチェったらずっと兄様の事を心配していたのよ」
「そうそう、レスターが落馬して怪我してないかだとか、変なもの食べてお腹壊してないかだとか、毎日聞かされてたんだよ」
 スカサハも笑いながらそう付け加える。
「……いや、そこまで抜けてはないつもりなんだけど」
 スカサハの言葉にレスターは困った顔をする。
 まさかラクチェに心配されようとは思ってもみなかったからだ。
「いやいや、レスターはぼ〜っとしているから油断できないってね」
「誰かが大丈夫って言っても、心配だ心配だってそればかり言ってたのよ」
 スカサハとラナが楽しそうに笑いながらそう言った。どうやら、そういう内容で毎日話のネタにされていたらしい。
 だが、当のラクチェは真剣そのものの顔をしていた。本人は真剣にそう思っていたらしい。ラクチェほどは危なっかしくは無いと思うのだが、ラクチェからすればそうなのだろう。
 レスターは起き上がると、ラクチェに手を差し伸べた。
「ありがとう、ラクチェ。
 この通り元気だから安心してくれよ」
 にっこり笑うレスターの手をラクチェは取らなかった。
 何だかまだ不満そうな顔だ。
 不思議に思ってレスターはラナやスカサハの顔を見る。だが、二人ともどうしてそういう状況なのか分かっていないようだ。
 ……何か別の事がラクチェに発生したようだ。
「知らない合間に何かちょっと違う人になってるし〜!!
 ちょっと対等になれたと思ったのに、また私を置いていく気ね〜!!」
「なんの話だ、それは〜?!」
「こっちの話よ、くやしい〜!!!」
 いきなり怒り出すと、ラクチェはじだんだを踏む。
 何が起きているのかラクチェ以外にはさっぱり分からない。
 だが、一人ラクチェは悔しそうにじだんだを踏み続ける。
 さすがにどうして良いか分からず、レスター達は顔を見合わせたのだった。


 私と彼との距離は結局、変わるようで変わらない。
 対等の立場に立ったと思ったのに。
 心配されるだけじゃなく、心配する立場になったと思ったのに。
 心配出来る立場になったと思ったのに。
 だから毎日心配していたというのに。
 実際会ってみると、やっぱり変わらなくて。だけど何か変わっているようで。
 向こうが変わっていると置いていかれたような気になって。
 だけど、やっぱりこの距離は変わってはいないようで。
 本当はこの距離を変えたいのか、変えたくないのか分からない。
 縮めたいのかもしれないし、広げたいのかもしれない。
 一生変えたくないのかもしれない。
 だけど、この距離が変わるときは、きっとお互いに大きな切り替えが必要なのだろう。
 それまではきっと変わらない。
 私と彼との距離。ずっと変わらない距離。
 

 私がこの距離を縮めたかったのだと気が付くのは、この数日後になる。


 終わり。

 ティルナノグ関係を書かないと耐えられない病が発生しました;;で、何を書こうかな〜と思っていたのですが…レスター&ラクチェが書きたいな〜と思って…こんな話になりました。ただ、距離を意識した時点で、やっぱり今までと同じでは無いのではないのだろうなと思います。当たり前が当たり前じゃないと気がつくって大きいかなと思ったりします。
 実は〜…基本的にレスラク書く時は頭の中で…一通り考えているせいもあって。この妙な終わり方も…実はこの後の話を同人誌で書いてたりするせいです;;この後、とある出来事でラクチェは気がつく〜って話なんですけども。
 レスラクは凄く好きで、字で書きたい思いと絵で描きたい思いが二つあって。ちゃんと字でも漫画でも描いていきたいなとは思っています。
 この二人って言うと…ラクチェ→レスターのイメージなんですよね、私。いや、レスターの初恋はラクチェだと思ってはいるんですけど…とうの昔にそんな思いは冷めてそうな…;;だんだん手のかかる妹分の印象の方が大きいんじゃないかな〜と。あと、やっぱりうちのラクチェはラナが大好きで仕方が無いので、自分もその延長上なんだと思っているんじゃないかと。そして…実際そうなんですけどね;;
 でもやっぱりラクチェはレスターに寄りかかってたり、ふわふわどこかに行ってしまいそうなのを必死で自分の下に繋ぎとめておこうとしているイメージですね。ラナに対してもそういう所があって、置いていかれる事を極度に嫌っていそうなイメージがあります。 
 なんかまた色々書いていそうですが、良かったらまたお付き合いしていただけると嬉しいです。

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