『失いゆくもの』


 もとはもっと賑やかだと聞いていたが、ミレトスの街は商業都市だけあってやはり活気があった。
 賑やかな町並みを、嬉しそうに歩く紫の髪の少女、そして彼女を守るように歩いている長身の青年。
「……私、ヨハンさんとこうして街を歩けるなんて……思ったこともなかったから、嬉しくて仕方なくて」
 ユリアは嬉しそうに頬を染めた。それは幸せそうな笑顔で、ヨハンの心を安心させた。
「何か、飲み物でも買って来よう。ユリアはその辺で待っていてくれるか?」
 ヨハンはそういうと噴水の方に指をさす。それを見てユリアはにこりと笑って噴水へと向かっていった。
 ヨハンはドリンクショップに出かけて、テイクアウト用の飲み物を二つ買う。
 噴水に向かうと、噴水の水の芸に見入っているユリアがいた。
「はい、これはユリアの分。りんごジュースだよ」
「ありがとうございます」
 ユリアは笑顔で受け取る。ヨハンはそのまま、噴水のふちに腰を下ろした。それを見て、ユリアもならって腰を下ろした。
「ヨハンさんは何ですか?」
「コーヒー。試しに飲んでみるかい?」
 ちょっといたずらっぽくヨハンはそう言った。それに対してユリアはちょっとびっくりした顔をしたが、好奇心に負けてヨハンのコーヒーを受け取って飲んでみる。そして顔をしかめた。
「……ヨハンさん、それ、異常に苦い事ありません?」
「いやいや、これは苦い飲み物だからね」
「好きなんですか?」
 ユリアは真剣に聞いてくる。それにヨハンはにっこりと笑った。
「ああ、私は好きだがね」
 その言葉にユリアは顔をしかめて、何かを考えているようだ。
「わ、私もコーヒー飲めるように頑張ります!」
「いや、無理しなくても……」
「……でも、好きな人の飲み物も飲みたいです」
 そう言ってユリアは真っ赤になって俯いた。そんなユリアをヨハンは愛しいと思う。
 彼女の傍にいるのも長くなってきていた。
 最初は彼女との昔の約束を守ろうと思っていた。……だけど、人は愛する生き物なのだと思う。
 少しずつ言葉を交わし、何気ない話で盛り上がるようになり、いつしか大切な人へと変わるのだ。
 ヨハンはユリアの長い髪を撫でた。細くしなやかな髪。
 全てが愛しかった。
「ユリア、愛しているよ」
 流れ出る言葉に身を任せる。ユリアはその言葉に赤く頬を染め、少し俯いた。
「……私も……愛しています」
 ユリアにとって幸せだった。ヨハンは素直な気持ちをそのまま表してくれる人だった。愛情表現がストレートであるだけに、ユリアの心には心地よく響くのだ。
 ヨハンはユリアの傍に居てくれる事が多く、彼女を守ってくれていた。最初は、何故そうするのか分からなかったけれど……今もはっきりとは分からないのだけれど「約束」があるから、ということだった。
 でもどんな理由にせよ、傍に居てくれることには変わりがない。
 ユリアの中で、自然にヨハンへの思いが溢れてくるのは自然なことかもしれなかった。
 だが、進軍が進むにつれ、ヨハンの笑顔も曇るようになっていっていた。ユリアの前では気丈に振舞ってはいたが、心を痛めているのは目に見えていた。
「……ヨハンさん、辛い事でもあるんですか?」
 ユリアはおずおずと聞いてみる。もし、あまり触れてはいけない話題だったらどうしようという思いもあるのだが、この戦争の中、どれも楽しい話ばかりでは無いのは分かっていた。
 ユリアの言葉に、ヨハンは驚いた顔をして、顎に手をやると考える仕草をした。
「……ばれないように、してはいたつもりなんだけどね」
 そう言ってヨハンは苦笑した。
 ヨハンは北西の方角を指差した。あの向こうにはグランベルがある。
「……だんだんグランベルと戦う事になってきたからね。まだ、兄がいるんだ。対立は……避けられないだろう」
「……お兄様まで……」
 ヨハンは既に父を亡くしている、この解放軍に殺されたのだ。ヨハンは解放軍の味方ではあるが、グランベルの裏切り者でもある。
「うちの兄上は真面目でね。おそらく私を許しはしまいよ」
 そう言うヨハンの目は遠い所を見ているようだった。
 だが。
 本当に辛い事が待っているのはヨハンではない。ユリアなのだ。
 ヨハンはユリアの髪を優しく撫でる。
 彼女は知らない。父親を、兄を敵にまわす事を……。
 それとも彼女は……このままこの軍に居られるのだろうか。相手は暗黒教団だ。ユリアを攫って行くかもしれない。
 本当に守れるのだろうか。ユリアを。
 それとも自分自身を守るのは彼女自身なのか。
 ユリアは背負う事になる。
 自分と同じ肉親を殺すという罪。
「……ヨハンさん?」
 ずっと髪をなでられたままのユリアが不思議そうにヨハンを見上げた。
「このまま時が止まれば良いのにな」
 ヨハンは遠くを見るような目で、ユリアにそう呟いた。
 ユリアはヨハンとは違う事を考えたらしい。ふわっと優しい笑顔になった。
「そうですね。私もずっとこうしてお話していたいです」
 ユリアは笑う。幸せそうな笑顔で。
 最初はどこか怯えた様な目をしている少女だった。極度に何かを恐れている、そんな印象があった。少しずつ、言葉を交わすうちに、セリスやラナ達と触れ合ううちに、ユリアの心の氷も解けてきたのだろう。
 そして、今、彼女を微笑ませているのは……自分なのだ。
 今は自分が気落ちしている場合ではないのだ。
 ユリアを支えなくてはいけない。
 知らぬまま父と兄を殺しても、知った上で殺す事になっても。
 ……それでも、彼女を支えていく自信はある。受け入れる気持ちはずっと前から用意していた。
 でも、不安なのだ。彼女が今消えてしまいそうになるように感じるのは何故なのだろう。
「ユリア……」
「はい、ヨハンさん」
 ユリアの声は明るかった。ヨハンの脳裏に去来する黒き出来事は、その笑顔で消えそうだった。
 そうだ。今はただ時を重ねていく事が大切なのだ。
 ヨハンはユリアの腕をとった。
「さあ、ユリア。少し、街を見てまわろう。面白いものがみれるかもしれない」
「はい、ヨハンさん!」
 輝かんばかりのユリアの笑顔にヨハンは心が安らぐのを感じていた。


「兄貴!兄貴ってば!」
 ヨハンの寝室をばたんと勢いよく割って弟のヨハルヴァが乱入してきた。
「兄貴、ユリアが消えたんだってよ!なんで探してねえんだよ!」
 机の上で書物に目を通していたヨハンは、騒々しいと弟を睨んだ。
「知っている。もう、心当たりは全て探した」
「でも、まだ、みんな諦めずに探してるぜ?!セリスもラナもラクチェもみんな!なんで恋人の兄貴が一番に探さないんだよ!」
「言っただろう。心当たりは全て探したと」
 ヨハンはぱたんと本を閉じ、威勢のいい弟に向かいにあるベッドに腰を下ろさせた。
「……予感はしていたのだ。いつかはこのような事態が起こると」
「いつから……?」
「マーファを出るあたりからだ……」
「ちょ、ま、待てよ!兄貴はそんな前から知ってたのか?止められなかったのか?!」
「仕方があるまい。ユリアはバーハラの姫君だ」
 ヨハンの言葉に、今度はヨハルヴァが固まる番だった。
 兄はこう言った。ユリアはバーハラの姫君だと。
 ヨハンはゆっくりと語りだした。
「気がついたのは名前だ。
 ユリア……聞き覚えがあった。
 それと幼い頃会った記憶だ。私は彼女に守ってやると約束した。
 帝国軍として出会った二人が解放軍で再会するなんて皮肉な話だな」
「なんで、なんで、兄貴はそのこと、みんなに言わなかったんだよ!」
 ヨハルヴァの問いに、ヨハンは沈鬱な表情になって言った。
「お前には言えるか。この先戦うのは父親と兄だと。
 私とお前がこれから起こる兄との戦いを思ってみろ。
 正直、気がめいる。ユリアにそんな話などできようか」
 ヨハンの言葉に、ヨハルヴァも言葉を失くした。
 兄も思いつめていたのだ。ずっと秘密を隠して、そしてユリアを守り続けて。
「ユリアを愛している。その気持ちに偽りはない。だが、ユリアを救えるのは私ではないかもしれない。セリス様かもしれないし、ユリア自身かもしれないのだから」
 ユリアを愛している。いつの日からか、彼女の言葉が仕草が全てが愛しくて大切なものになっていた。それは今、全て奪われた。
 そう……サイは振られた。
 この先どうなるのか分からない。ユリアがどうなるのかも分からない。
 ……この失意の底に、希望があることを、ヨハンは願うしかなかった。


 捕らわれのユリアも記憶を全て思い出していた。
 兄が母を殺した事。そして自分も殺そうとした事。
 ヨハンがよく言っていた約束の意味も分かった。
 ヨハンは知っていたのだ。私が、バーハラの姫だと。だから、それをあえて隠してきてくれていた。
 ヨハンが言っていた。
 このまま時が止まればいいのにと。
 ユリアはあの時、あの楽しい時間が止まればいいのにと、そう解釈した。だけど、それだけの意味ではなかったのだ。ユリアとヨハンの関係が、あのまま続けばいい、という意味だったのかもしれない。
 ユリアは思った。
 きっと彼は知っていたのだろう。
 私が辛い思いをするから…あえて避けていたのだろう。その話題に触れないように。
 愛されていたのだと思う。
 そしてユリアも彼を愛した。

 この失意の先には何が待っているのだろうか。


終わり。
 


え、ここで終わりなんですか?と言われそうですが、ここで終わりです。
だってテーマが失意なんだもの。ここで終わりです。ヨハユリ最終話は次回更新でUP予定です。
ヨハンvユリアって結構シビアなカプですよね。両方とも肉親(親兄弟)を殺してきているのですから…。このカップル自体は多分、お互い人が聞いたら恥ずかしいと感じるような台詞をぺらぺらと喋ってる幸せなバカップルって感じでほのぼのらぶな印象なんですけどね。背景がね、痛いよね、この二人。
んでも幸せになって欲しい二人なのです。

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