それは奇跡の起こった日。

トルメキア軍のクシャナと停戦を交わした風の谷の民と
ペジテ市民は混乱の後片付けに追われていた。

夕刻に入る前、風の谷はペジテの民達に歓迎の意を込めて
城の酒宴に同席を求めた。
(トルメキアへは生存者達が喉を潤せるくらいの葡萄酒が贈られた。ナウシカの配慮である。)
風の谷とペジテの女達は慌しく準備を終えて
水浴びの後、ナウシカは自分の部屋で身を整えていた。



「ナウシカさん、いらっしゃる?」
 不意のノック、扉の向こうから聞こえた声は確かアスベルの母の声だった。
「はい、います。どうぞお入りください。」
「突然ごめんなさい、仕度中に。」
 部屋へ招かれたアスベルの母は、その腕に大事そうにポーチを抱えていた。
「いいえ。こちらこそ、今日は風の谷がご招待したことなのに手伝って頂いて感謝しています。」
 ナウシカが笑顔で迎える。
「まぁ可愛らしい。」
 ナウシカの姫装束姿にアスベルの母も顔を輝かせた。
「そ、そんなこと無いです。いつもじい達にお転婆って言われてるから…」
 アスベルの母が、ふふふと笑う。
「手伝わせてもらっていいかしら。」
 そう言ってアスベルの母は持っていたポーチを開く。
「ラステルのものだったのです。」
 綺麗に飾り付けられているポーチの中には、化粧の為の道具一式が入っていた。
「え…、私お化粧なんてしたこと無くって。」
「大丈夫。そこにお掛けなさい。」
 促されるまま椅子に座ったナウシカの頬に、アスベルの母はゆっくりと紅を塗り始めた。
「……」
 柔らかく、優しい手ざわりが心地よい。
「ラステルにもよくこうしてあげました。」

 懐かしそうな声

「………」
「こうしていると、まるでラステルが戻ってきてくれたみたい。」
「私ってそんなに似ていたんですか…?」
 アスベルの母の手が止まる。
「ええ、あの子は大人しい子だったけれど、何故かしら面影が…」
「アスベルもそう思っているようで…、本当に仲のいい兄妹でした…」
 アスベルの母が言葉に詰まる。
「お母様…」
「…ごめんなさい、逝ってしまった者と生きている人を比べてしまうなんて。」
「いいえ、嬉しいです。」
 言葉に嘘偽り無く、ナウシカは微笑んでそう答えた。

 母親というものの思い出の僅かである自分にとって、とてもとても嬉しい事だった。

「それに」
「今日はありがとう。あなた方には責め苛まれてもしょうがないことをしたというのに…」
「…もう、済んだことだから。」
「それよりも、今日はぜひぜひこの谷を楽しんでくださいな!」
「ありがとう。ここは、とても優しい人達ばかりね。」

 テトは隅っこで二人をじっと見つめている。

「さあ終わりました。」
「これが私…?」
 手鏡に映る自分の顔を見つめるナウシカ。
 最後にアスベルの母は閉じたポーチをナウシカにそっと手渡した。
「え?」
「これを貰ってくださるかしら。」
「ええっ?、とても大切なものなのでは!?」
 アスベルの母は首を横に振る。
「…あなたに、使って頂くことが正しいと思うから。」
「…ありがとう、ございます…」
 ナウシカは目をつぶり、ポーチを抱きかかえた。

「それに、ね。」
「…?」
 急にアスベルの母の語気が変わり、ナウシカはきょとんとした。
「アスベルがとてもそわそわしているの。」
「もう、ずっとあなたの話ばかり。」
「お、お母様っ!」
 思わずポーチを落としそうになる。
「うふふ、あなたに本当にそう呼んでもらいたくてお節介してしまったかしら、ね。」


  ふと思い出す


 (頼む行ってくれ、僕らのために行ってくれ!)
  私を逃がすために丸腰でトルメキア兵に立ち向かっていった
 (行け!、ナウシカ、行けぇぇ!)

  …だけど、無事でいてくれた
 (みんなユパ様のおかげだ!)
  なんて言っていたけれども

 (すごい人だよ君は!、本当にすごい!)
  ありがとうと答える前に、いきなり抱き上げられた
 
  自分を支える逞しい腕、満面の笑顔 
  アスベルが私のことばかり、と…


 胸の内に、熱いものが込み上げる。

「そ、そんな…」
 ナウシカはうつむいてポーチを強く抱きかかえた。


「ナウシカ、ペジテの奥方。宴の準備が整いましたぞえ。」
 廊下から大ババ様の声がした。
「ババ様!、今行くわ。」
 あまりの気恥ずかしさからナウシカは扉へと急ぐ。
「ふふ、参りましょうか。」
「さぁさ、寒い夜になりましたからな。足元にお気をつけて。」
「テト、いらっしゃい!」

 ナウシカは少し先を歩き出す。鼓動はまだ、速かった。

「ナウシカ!」
「な、なぁに?」
「よかったの、いろいろとな。」
 ババ様が半ばからかうようにフェフェフェと笑いかける。
「…!、ずっと聞いていたの!?」
「そりゃそうじゃあ、奥方を案内したのはこのワシじゃからのォ。」
 立ち止まるナウシカ、テトが祝福するかのように勢いよく肩に飛び乗る。


 生まれて初めての戸惑い、けれど心の奥底では、不思議と小さな小さな喜びを感じていた。