The Furies

第1章 運命の輪

契約-2

壁の向こうから聞こえる絶叫−−−逃げ回る足音、何かを切り裂き様々なものが倒れる重い衝撃音、それから濃く漂う生臭く錆びた鉄の臭い。 ぎゅっと固く握り締めた指先が冷たく、気がつけばかたかたと体が震えていた。先程まで感じていた憤怒と激情は霧と消え、ただ、恐怖した。その圧倒的な力に。

まるで何かに縫い止められたように動かなかった両足を、必死に動かそうと試みる。後ろに下がるなど、リシュリューの名を貶める行為だと分かっていた。前へ、前へ進むことだけを教えられてきたのに。その教えを自分が裏切る日が来ようとは、夢にも思わなかったのに。冷たい汗が、首筋を、背中を流れ落ちていく。心臓がどくどくと厭な音をたて、全身の血液が足先に集まってしまったように、頭の芯が痺れ全く思考が働かなかった。

逃げろ。

逃げて生き延びろ。

何度も何度もその声だけが聴こえる。それが師である父の言いつけだから。だからここにいてはいけないのだ…

込み上げる吐き気を抑えるために右手を口元に当てて、後ろを向いた。絶対に、二度と振り返ってはいけない。そして思い通りに動かない足を引き摺りながら、階段を降りていく。


◇ ◇ ◇


ユンはゆっくり目を開けた。柔らかい枕、白い清潔な肌触りのシーツ。こんなに上等の寝台で休んだのはいつぶりだろうか…。 だが、額には嫌な感触の汗をかき、長い髪がべたりと顔に張り付いている。それを鬱陶しげに払い、溜息をひとつ吐いて気だるげに身を起こした。 窓から覗く空から、まだ日は明けて間もないようだと判断する。

昨夜、あれからまっすぐ部屋に戻され、ユンはしばらく呆然としたまま部屋の中で立ち竦んでいた。自分の愛剣が稀にみる名剣だとは分かっていたが、レイノール公爵が明かした預言書になぞらえた名前、王から下賜された品、対の剣の存在など、今までそのような曰く因縁など全く知らなかったことが衝撃だった。何も知らない自分が不思議だった。

レイノール公爵邸の警備は強固だ。ユンは刷り込まれた習慣で、無意識のうちにその守りの堅さを確認していた。充分な数の騎士を抱え、要所に配置し、それぞれきちんと訓練されているのが分かる。ここから何かが盗まれたとなると、どんなに大きな危険を冒そうともそれを手に入れたかったということであり、盗んだ者は相当の手練の者だと言える。そして、そこまでして盗んだ剣と同じような価値が、自分の剣にもあるのだということにユンは気付いていた。

自分の思わぬうちに、得体の知れない何か大きな流れに巻き込まれていく。そんな予感に、ユンは昨夜なかなか寝付けなかった。あのような、記憶の底に封じたはずの記憶を夢に見たのは、そのせいに違いない。

頭を振って、ユンは物思いを振り払った。無性に外の空気を吸い、体を動かしたいと思う。夜着を脱ぎ捨て、エドナに貰ったワンピースに着替えて顔を濯ぐと、表に出るべく動き出した。

◇ ◇ ◇


朝の澄んだ冷たい空気が心地よい。ユンはゆるりとした足取りで裏庭を横切り、平らな石を敷き詰めた開けた一角に出た。ここなら誰にも邪魔されずに剣を振れそうだ。

足を開いて体の力を抜き、目を閉じて深く息を吸う。ゆっくりと気が体を巡るのを感じながら、愛剣を鞘から抜き中段に構えた。まず右へ薙ぎ、左へ払う。軽く踏み込み、刃先を左斜め下に向けて、吐いた息に気を入れて正面を突く。決められた型を丁寧になぞるうちに、まるで目の前に敵が見えるかのような動きで、徐々に剣先に気迫が篭り始め鋭さが増していく。熱さを増す体とは逆に、心は静かに凪いでいく。水のように。鏡のように。

ふっと無心に動いていたユンの動きが止まった。

「…邪魔をしてしまったようだ。すまない」

「オルフェリウス様。おはようございます」

ユンは頭を下げた。微笑むオルフェリウスは、ぴたりと身に合った略式の武術着を着ており、細身の割にがっしりとした肩幅や引き締まった筋肉が露わになって、日頃の鍛錬振りが伺える。

「つい見惚れてしまったよ。私はこれから修練場に行くのだが、もしよければ一緒にどうかな」

「えっ…しかし、私のような者がそのような場にお伺いするのは…」

「自主鍛錬の時間だから、来ている者もそう多くない。気軽に来ればいい」

そう言われるとそれ以上拒むこともできず、この邸の騎士の鍛錬に興味を感じたこともあり、ユンはオルフェリウスに促されるまま邸の敷地の北端に位置する修練場へと向かった。朝露で潤った花々が放つ美しさや小鳥のさえずりを楽しみながら庭の奥へと進むと、修練場が見えてきた。それは簡素な白い石造りの平屋で、中からは微かに打ち合う音や人の声が漏れていた。

オルフェリウスが入口を抜けるとすぐ「おはようございます!」と集まっていた邸の騎士たちが一斉に挨拶の声を上げた。オルフェリウスは軽く頷きそれに応え、ユンを連れて中に入っていく。

「随分毛色の変わった子を連れてますね」

声を掛けてきたのは、上背のある岩のような体格の男である。

「ああ、客人を連れて来た。そうだな、少し相手をしてあげてくれないか」

修練場にいる男たち全員の視線を感じる。どうしてこんな若い女の子がこんな所に?という不思議そうな顔、事情が分かっているのかおもしろがっている顔、もはや見慣れた奴隷風情がどうした、という蔑んだ顔。ユンはいたたまれない気持ちで立っていたが、そのオルフェリウスの言葉にぎょっとした。

「あの、私は立会いなどするつもりは…」

「おもしろそうですね。サニレでの剣技、もう一度拝見したいと思っていたんですよ」

男はにやりと笑った。どうやらサニレの森で野党を相手に立ち回りをした際、この男もあの場にいたらしい。完全にオルフェリウスに乗せられているな、と苦笑しながらユンは素直に中央に進み出た。紐を借りて、長い髪を結ぶ。確かに最近、まともな相手のある稽古をしたことがなかった。いい機会だと思うことにする。

「じゃあ、これが刃を潰した稽古用の剣。使い慣れないから扱いが難しいかもしれないが」

渡されたのは、ユンの体格を慮ってくれたのか男に比べると小振りの剣である。ユンは礼を言い、二、三度振って手に馴染ませると、静かに構えた。

出された合図と共にカン、カン、カンと刃が交わる高い音が響く。スカートの裾が、ふわりふわりとユンの細い白い足に絡み付く。どの方向から打ちかかられても、ユンはその重い衝撃を軽く受け流していった。しなやかな足捌きと、鋭い太刀筋。それは一匹の黄色い蝶が舞っているような鮮やかさで。修練場はしん、と静まり返っていた。男の太い腕から繰り出される渾身の突きを紙一重でかわすと、突然ガンッと強く相手の刃を跳ね除け、一気に間合いを詰めてユンは相手の懐に飛び込んだ。

「勝負あり、だな」

ユンの握る剣の刃はピタリと相手の首筋に当たっている。相手をしていた男は、ふうっと息を吐いた。固唾を呑んで見守っていた修練中の騎士たちから、驚きのざわめきが漏れた。

「何か…こんな短時間で勝負がつくなんて、全然相手にされてないって感じだな」

決まり悪げに呟く男に対して、ユンは首を振った。

「腕力も体力も、女である私は貴方様より劣ります。短時間で決着をつけねば勝敗は明らかです」

刃を交える時間が長引けば長引く程不利になる。非力な女の身だからと、ユンは苦く思った。

「ありがとう。騎士たちにもよい刺激になったようだ」

オリフェリウスは丁寧に謝辞を述べた。と、突然身を屈めてユンに顔を寄せた。

「一子相伝と言われるリシュリューの暗殺剣。見事です」

その言葉は小さく耳に囁かれた。ユンは間近にある端整な顔をじっと見詰め、眉間に皺を寄せるとふいっと目を逸らした。オルフェリウスの顔に浮かんだ微笑を忌々しく思いながら。




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