The Furies

第1章 運命の輪

契約-1

ユンはゆっくりと面を上げた。

「…まさか」

どこからか呻くような声が漏れた。それはオルフェリウスのものかラディエスカのものか。

「大変失礼ではございますが、それはどなたのお名前でございましょう?」

ユンの口から出たのは、静かな声だった。そこには純粋な疑問だけが込められていた。訊かれたレイノール公爵は答えず、何かを見通すような目で、そのユンの小さな白い顔を見詰めていた。が、不意に視線をラディエスカに移した。

「ラディエスカ。この方から剣をお預かりしろ」

言われてラディエスカは、未だ跪いているユンの傍らに歩み寄り、床に置かれた剣を拾い上げた。

「抜いてみよ」

このような場で抜刀する非常識さを完全に無視し、ラディエスカは剣を抜こうと柄に手をかけた。ラディエスカの両手に力が込められ、そのうち腕の筋肉がよじれ腱が浮き上がっても、柄と鞘はぴたりと合わさったまま、一向に動く気配はなかった。

「ぐっ… 無理だ。抜けぬ」

ほうと息を吐いたラディエスカはよほどの力を込めたらしく、その顔は赤い。

「やはりな」

レイノール公爵は呟くように言い、その場にいる全員に声を掛けた。

「話は長くなる。皆、こちらに座って寛いでくれ」


◇ ◇ ◇


執事が呼ばれ、それぞれに香りの高い茶が振る舞われた後、公爵は完全な人払いをした。四人はそれぞれ向かい合い、毛足の長い柔らかな椅子に身を沈めていた。

「ユン、と呼ばせて貰ってよいのかな」

レイノール公爵の口元に浮かんだ笑みは、どことこなくからかいを含んでいる。そう呼ぶのは便宜上のことだと言わんばかりに。ユンは黙って公爵が口を開くのを待った。

「さて、何から話すべきか。…君はこの言葉を知っているかな。『暁の光と射干玉(ぬばたま)の闇に運命の輪は巡る』」

「…ン・モデナの預言書に出てくる『創世』の一節です」

「そう。さすがだ」

レイノール公爵は迷いのないユンの答えに満足気に頷き、先を続けた。

「実は、君のその剣には対の剣が存在する」

ユンははっと息を呑んだ。

「宮廷お抱えの武器職人、テラ・ルーンが王命により鍛錬した一対の剣。この剣の存在を知っているのは、ほんの僅かな人間だけだ。いや、僅かな人間のみのはずだった、と言うべきか…」

公爵は最後のひとことを小さく口に出すと、目の前の香茶に優雅な仕草で口を付けた。

「さて、今君が手にしている剣だが、私の見る限り間違いなくそれはテラが創った二振りの剣のうちのひとつ。そちらのものは先程のン・モデナの預言書にちなみ“暁の光”と呼ばれている。ご存知かな?」

ユンは首を横に振った。声を出せなかった。長らく自分の側にあったのに、このようなことを聞くのは初めてだった。

「そしてもう一つのつがいの剣“射干玉(ぬばたま)の闇”だが…数日前、我が邸から何者かによって盗まれた」

オルフェリウスとラディエスカが沈痛な面持ちで俯いている。ユンはこんな所に自分の剣の対があったこと、今告げられた盗まれたという事実などに驚きを隠せず、じっとレイノール公爵の顔を見守った。

「あれは常にここにいるオルフェリウスが身に付けていた。しかし、先日の騎士叙任の授与式でオルフェリウスは儀礼用の大剣を佩刀せねばならず、やむを得ずこの邸に置いて出たそのわずかな機会に奪われた」

レイノール公爵は目を閉じた。苦渋の表情である。

「ここの警備は万全だった。だが賊はさらに上手だった。奪回は困難かもしれないが、絶対に取り戻さねばならん。それも誰にも知られず、密かに、しかも速やかに」

決意を秘めた固い声が、続けて言った。

「ユン。君は剣を使う仕事を請け負うと聞いた。サヴァニ男爵夫人にはお願い済みだ。私と新しい契約を結んで欲しい。“射干玉(ぬばたま)の闇”の捜索と奪還だ。引き受けてくれるね」

それは依頼などではなく、決定事項を告げる断定的な口調だった。否も応もない。ユンはただ黙って頷いた。それが返事だった。


◇ ◇ ◇


「まさか…リシュリュー家の生き残りとは…」

「剣が抜けなかった。それが何よりの証拠だ。お前の剣同様、強いテラの呪がかかっている。抜くことができるのは正統な所有者のみ」

「彼女の存在を知るのは、私たちだけでしょうか?」

「さあ。そうとも言えまい。もしかしたら、この件に巻き込むことで事が公になり、彼女に不利な状況になるかもしれない。が、逆にこちらが想定外の損害を被る可能性もある。不確定極まりない危険要素だな」

「それなのに、敢えて巻き込む訳ですね」

「そう。あれを探すには対の存在が必要だから」

「…石が呼び合うと?」

「ふふ。このタイミングで“暁の光”に出逢えるとは、まさに運命の輪が動き始めた証拠ではないかね?伝承といえども侮れぬ」

「私が都を離れる手筈は」

「抜かりない。お前の代わりはラディにやらせる。それより、彼女の扱いに気を付けろ。…色々な意味でな」

レイノール公爵は微笑んだ。それはよく彼が宮廷で見せる底知れない冷たい笑みだった。オルフェリウスはそんな父の顔を見返して、固く口元を引き締めた。




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