第1章 運命の輪
邂逅-2
簡単に体に布を巻きつけただけの、白い太股も露わな少女の姿が目の前に立ちふさがり、他人の持ち物を勝手に持ち去るなどという傍若無人な振る舞いをした男も、 さすがに目を見開いて立ち止まった。その漆黒の髪は濡れ、華奢な肩に長く重たげな筋を描いて垂れ下がっている。
「私の剣をお返し下さいませ」
と、ユンは低い声を発した。険しく吊り上った眦が、その丁寧な物言いを裏切って怒りを露わにしている。しかし、当の男は曖昧な笑みを浮かべて
「ちょっと借りるだけだからさ」
と適当にあしらう風で、ユンの言葉など右から左という感じだ。
「…どう申し上げても無駄なようですね」
と溜息混じりに言い、ユンは一旦体を沈ませると、手刀を男の咽喉元目掛けて繰り出した。
「!」
必殺の一撃をかろうじてかわせたのは、ひとえに男も騎士として日々体術の訓練を積んでいたからである。その膝のバネを使った動きは、通常なら避けようもないほどの早さだった。かわすや否や返す手で脇腹に肘打ちを入れられ、動きについていけず受けた痛みに思わず息を呑む。まばたきもできぬ間に、ユンは体を床に伏せ、背後から足払いを掛けた。その一連の動きに全く無駄はない。男の体がぐらりと傾ぎ、倒れまいと足元に気を取られ、その瞬間剣を掴んだ右手に隙が生まれた。もちろんそれを狙っていたユンは、愛剣を奪おうと素早く手を伸ばす。
バシッと大きな音が立ち、光が弾けた。
「っく!」
ユンの手が障壁に阻まれたのだ。痺れるような痛みに眉を顰め、男の手首に視線をやる。
「メゾネス(魔具)…」
それは『能力の腕輪』と呼ばれる魔具だった。
人は皆、魔力と呼ばれる力を持っている。だが、それを自在に使う能力はない。普通に生活する人々は、一生魔道になど縁なく過ごすことも珍しくなく、稀に使えるものがいてもごく微量の力である。生まれ持った魔力を最大限、自在に使える存在など本当に世界に一握りで、そういう人々は畏れと尊敬を込めて「エスパルス(魔道士)」と呼ばれていた。
普通人が、エスパルスのように能力を引き出し使えるよう作り出されたのが『メゾネス』だった。それは“科学と魔道の国”と呼ばれるハイラル帝国の国立研究所で発明されたもので、腕に嵌めて使われることが多い。ハイラル帝国は数多くの優秀なエスパルスを輩出した国であるが、メゾネスの製造法は国家の最高機密とされ、世界中の国が軍備のためにその希少な品を競って輸入していた。そのためハイラル帝国は巨万の富を有しており、どこの国も無視することはできない、大きな力のある国のひとつとなっている。
一般人が持ち得ないメゾネスを持っている男は、確かにこの国の上位の騎士であるということであろう。咄嗟に障壁を張るなど、なかなかの使い手のようだ。
「何をしている!」
凛とした声が廊下に響き渡り、睨み合い膠着していた二人は我に返った。
「オルフェリウス…」
男が気が抜けたように呟く。それはユンを邸に連れて来た、金髪の騎士だった。
「ラディエスカ。一体何の騒ぎだ、これは」
「…マジこいつとんでもねー女だよ!」
どうやら男はラディエスカという名らしい。二人の傍に寄ったオルフェリウスは、憮然とした表情のラディエスカを見つめ、次に手に持った剣に視線を移した。
「その剣はこちらの女性の物だろう。何故お前が持ってるんだ」
「や、どうにもウチのと似てるから、少々拝借して検討してみたいと、思って…だな…」
ぐっと険悪になったオルフェリウスの雰囲気に、ラディエスカの声は徐々に小さくなっていった。
「それで?女性の入浴中に押し入って、盗人のマネか」
オフェリウスの冷ややかな眼差しと声に、ラディエスカはむっとした表情を浮かべながらも、押し黙った。
「申し訳ありません、家人が無礼を。お怪我はありませんか?」
ユンに対して気遣いを見せるオルフェリウスに、横に立っているラディエスカは「怪我してんのはむしろこっちだよっ」と小声でぼやくと、忌々しげに痛む脇腹を撫でた。
「全く…お前には反省の色というものがないな」
とオルフェリウスが呆れたように言い、「ほら、さっさとお返ししないか」とラディエスカに促した。渋々、といった様子で返された剣を受け取り、ユンは「くしゅん」とひとつくしゃみをした。
「そのような格好では冷えるでしょう。エドナ!」
オルフェリウスが呼んだのは、先程入浴で世話になった赤毛の女の子だった。
「この方をもう一度温めてさしあげて。それから着替えを」
「かしこまりました」と頷き、エドナが優しげにユンの手を取った。引かれるままに歩き出す。
「…浴室から飛び出して行かれるのを見て、驚きました。咄嗟にオルフェリウス様をお呼びしたんですけど、正解でしたわ」
どうやら事情を説明してここにオルフェリウスを連れてきてくれたのは、このエドナらしい。
ユンは
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
と神妙に頭を下げた。
「ラディエスカ様は決して悪い方ではないんですけど、女性の湯殿に入り込むなんてちょっとどうかと思いますわ」
とエドナは困ったように言い、ユンに同情的な眼差しを向けた。それに苦笑を返しつつ、ユンはさりげなく後ろを振り返り、遠くなった二人が小声で何かを話し合っている様子に目を凝らした。やや躊躇いながらも、あるいはエドナなら不躾と怒らないかもしれないと、思い切って口を開いた。
「…あのお二人は、どのようなご関係なのでしょうか」
「オルフェリウス様とラディエスカ様ですか?」
エドナは期待通り気さくな口調で答えてくれた。
「お二人ともゼスナ国第一騎士団所属の聖騎士様で、レイノール公爵のご子息ですわ。もしかしたら、地方にお住まいの方ならご存知ないかもしれませんが…アドレアではその戦歴と美貌で有名な方たちです。舞踏会では女性からのお誘いがひっきりなしだと伺っておりますわ」
第一騎士団の聖騎士といえば王直属の近衛兵で、騎士の中でも家柄と剣の腕が問われるエリートの集団である。表情から、エドナが主家の息子たちを誇りに思っていることが伝わってきた。
「でも、ご性格は全く違っていて…先程の件でもうお分かりかと存じますが」
エドナはくすくす笑う。
「ラディエスカ様はあんな風ですけど、オルフェリウス様は廊下でユン様のお姿を見て、とってもうろたえておいででしたわ。ですから少しユン様をお助けするのが遅れてしまって」
あの時は全く気付かなかったが、確かにこの格好はいかがなものか。ユンは自分の布一枚巻いた体を見下ろして、改めて顔を赤らめた。
「ラディエスカ様は女人に手を出すのがお早いと聞きます。ユン様もご用心遊ばせ!」
エドナはパチリとウィンクを寄越すと、もう一度ユンを浴室に案内した。