The Furies

第2章 蒼天の鏡

際会-6

踏み締めた下草から爽やかな香気が立ち昇り、朝靄と共に二人を包む。早朝の山は肌寒いが、長く傾斜を辿ってきたユンとオルフェリウスにはそれが心地よかった。

弾む息が白い。

人の手が全く入っていない山の様子を見ると、ここは国の保護区か何かだろうか。自生する木々も年輪を重ねて太く大きいし、稀に目の前を過ぎる野生動物も目にしたことがないようなものがいる。宿の食堂で教えられた通り街外れの小道から入り、二人は山頂に向かっていた。テラの工房を訪ねるためである。

人がつけたと思われる細い道を時折休息を交えながら登っていくと、山頂に近付くにつれ周りの景色に荒い岩肌が目立ち始めた。緑が減り、少しずつ視界が開けていく。

「やれやれ、もう少しで山頂のようだ。結構歩いた気がするな」

ユンは頷いた。確かに、想像していたよりも村から離れている。きっと工房は隠遁生活を送るに相応しい隠れ家だろう。

「…………!」

山頂に立つなり広がる一面の青…ユンは思わず、息を止めた。

いきなり目の前に現れたそれは、広い広い湖だった。囲む岩肌が白いせいか、青がますます深い青を湛え、空から降る光を金色の帯のように走らせながら湖面を風が渡っていく。視界を遮るもののない紺碧の空には、ちぎれたような白い雲が浮かび、刻々とその姿を変えていた。溢れるような太陽が頭上から燦々と降り注ぎ、風がユンの長い髪を弄り巻き上げながら通り過ぎていく。遠くに見える鳥が時折上げる甲高い鳴き声以外、何の物音もしない静寂の世界―――

「まるで…ここは神々の世界のようですね…」

静寂を乱すことを畏れるように、ユンは隣で同じように立ち竦むオルフェリウスにそっと囁いた。

「そう、ここはアジェリール、『蒼天の鏡』だから」

古くン・モデナの時代から、アジェリールは“蒼天の鏡”と呼ばれてきた。美を司る女神ファルテナンが下界に降りアジェリールに差し掛かった時、湖面に映る自分の姿に夢中になった。そのためゼナスに捧げるために腕に抱えていた晶碧の花を落としてしまい、元々透明だった湖水は青を宿すようになった。神の姿を映すことが出来る程穢れのない水など、下界にはここだけ。ファルテナンを始め神々は時折ここを訪れて己の姿を映す。そのためアジェリールの水には神力が宿るようになったとも言われ、神の水鏡として信仰の対象となっているのだ。

ようやく我に返ってユンは大きく息を吸い込んだ。清浄な気が胸一杯に満ちる。この壮大な自然の中でユンの存在など本当に小さく、変わらない時を刻む悠久の中でユンの存在など一瞬にも足りない。

「あそこに見えるのがテラの工房だろう。行こう」

オルフェリウスに促され、ユンは遠くに見える建物へと歩き出した。

頑丈な木で組まれたドアを叩くと、中に人の気配がして、そろりと扉が開かれた。

「…あれ」

目線を下にやると、銀色の頭が見える。年の頃は十二、三、浅黒い肌に零れ落ちんばかりの大きな緑の瞳が印象的だ。肩で切り揃えた髪の間から、尖り気味の耳が覗いているのが愛らしい。

「こちらはテラ・ルーン殿の工房でしょうか?」

オルフェリウスの丁寧な問い掛けに、じっとこちらを見詰めていた女の子がこくん、と素直に首を振る。

「私はオルフェリウス・デュ・レイノールと申します。テラ・ルーン殿にお会いしたいのですが」

あくまで貴人に対する礼儀正しさで接するオルフェリウスの態度に、その小さな女の子は小首を傾げ、やがてこちらに、というように二人を建物の脇へと誘った。

ひらひらと風に揺れる洗濯物が並ぶ小さな庭を通り過ぎ、奥へ進むとまた別の建物が姿を現した。こちらは表の建物とは違い、小さな石を巧みに積み上げて作られている。どうやら、ここはテラの作業所のようだ。扉は開け放たれており、女の子はタタタッとその中へ小走りに駆け込んでしまった。

「お客だと?」

ゆったりとした深い響きの、年配らしい男性の声が聞こえた。やがて戸口から姿を現したのはがっしりとした体格の、顎鬚を蓄えた男。

「瞳が赤…」

思わず呟いたユンの言葉を聞き取り、その男は目を細めた。




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