第2章 蒼天の鏡
際会-4
満員の食堂で、ユンとオルフェリウスは何とか席を確保して食事を囲んだ。久々に温かい食事にありつけるとあって、二人は頼みすぎではないかと思えるくらい大量の注文を出してしまった。机にぎっしりと並べられた大皿には、山で採れた香草や茸をふんだんに使った料理が盛り付けられ、白い湯気を上げている。中でも、セロと呼ばれる香草を練りこんだ生地の中に魚や肉を包んで蒸した饅頭はアジェロの名物で、売り切れていなかったのが幸いとばかりにユンはまずそれを手に取った。二つに割ると中からじわりと肉汁がこぼれ出て、食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。勢い良く口の中に押し込んでいく様子を、オルフェリウスはちょっと呆れたように見詰めたが、その様が決して下品に見えないは流石というべきなのか。背筋をまっすぐに伸ばし、料理をちぎって口に運ぶ指先の動きはいっそ優雅にさえ見える。奴隷であった頃にもこのような所作を見せていたのなら、身分を偽っていると誰かに露見していてもおかしくはなかったのではないだろうか、とオルフェリウスは吸い込まれるように無くなっていく饅頭を眺めながら考えた。
「あ、ちょっといいかな」
オルフェリウスは給仕で忙しく立ち働いている女性を呼び止めた。
「なんだい?」
大柄な体を机の間できびきびと動かしていた女は、追加の注文でもあるのかと前掛けで手を拭きながら立ち止まった。
「テラ・ルーンの工房があると聞いたんだが、場所は分かるかな?」
ああ、と女性は頷いた。有名な工房なので、返答はすぐだった。
「テラの工房は山頂にあるんだよ。湖のほとり。街のはずれの小道を辿って随分歩かなきゃなんないんだけど、ま、一本道だからね。迷うことはないよ」
「そうか、ありがとう」
慌しく次の注文を訊きに立ち去る女の背を見送り、オルフェリウスも遅ればせながら料理に手を伸ばした。アドレアで食べるものとは比べ物にならないような素朴な料理ばかりだが、それ故に滋味深い味わいがある。杯に満たされた地元の果実酒もうまく、オルフェリウスもユンに負けない健啖ぶりを発揮して、あっという間に並べられてた皿たちは空になった。
「明日は朝早めにここを出て、テラの工房に向かおう。エウ・パナーゼの前だから、留守ということもないだろうし」
ユンは満足気にお腹を撫でながら、「分かりました」と上機嫌で答えていた。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ったところで、ユンははたと気が付いた。寝台がひとつしかない。誰かが床で寝るのか?…まさかオルフェリウスに「床で寝て下さい」とも言えない。ここはユンがさりげなく譲るべきなのだろうか。部屋に用意されていた水差しの水を取り、ユンはそれに口を付けながらちらちらと視線を寝台に投げた。
「私が床に寝るから、貴女はここを使うといい」
まるでユンの頭の中を読んだようなオルフェリウスの言葉に、ユンは慌てて手を振った。
「いいえ!どうぞオルフェリウス様がお使い下さい」
「女性を床に寝かせるような非常識なまねはとてもできないね」
「私は床で寝るのは慣れておりますし、何なら外でも」
「馬鹿なことを」
オルフェリウスは笑いを堪えるように手で口元を押さえつつ言った。
「何なら私は一緒に寝ても構わないが?」
「!」
かぁっと顔を赤くしたユンを見て、オルフェリウスは吹き出した。
「オルフェリウス様っ、ご冗談は−−−−−」
ガシャン、と音がした。
「…ユン?」
ユンは自分の手を見詰めて立っていた。その顔は真っ青で、よく見ると指先がぶるぶると震えている。割れた水差しが散らばり、木板の床に水がどんどん染みを広げていく。
「しまった、痺れ薬…」
ユンが言い終わらぬうちに、背にしていた窓ガラスが派手な音をたてて割れ、黒い影がいくつも部屋に押し入ってきた。
「ちっ」
ユンは舌打ちをして素早く寝台の陰に身を伏せた。オルフェリウスがその前に庇うように立ち塞がり、剣を抜く。たちまち激しい剣戟が始まった。
指先から冷たい痺れが走り、感覚が失われていく。ユンは躊躇わず咽喉の奥に指を突っ込んだ。胃の中の物が逆流し、床を汚す。悪臭などに構っていられない。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。
(あー、せっかく食べたおいしい料理がー!何てことさせるのよ!)
こんな時なのに暢気な事を考えているようだが、ユンの怒りは本物だ。幸いにも自分の荷袋が近くにあり、隙を見て手を伸ばす。もし自分が薬殺するなら絶対にこんな所も見逃しはしないが、敵はそこまで周到ではないと信じてユンは水筒を取り出し水を呷った。胃の中の毒物を薄めるためだ。無理矢理手を動かし、痺れを飛ばす。腰の愛剣に手を伸ばして柄を握ると、立ち上がり様に一閃を飛ばした。
「うがぁ!」
まさか毒に侵されているのに立ち上がれるとは、ましてや剣を振れるとは思わなかったのだろう。侵入者達が驚いたように一瞬怯んだ隙を見逃さず、ユンは素早く踏み込み正面にいた敵の脇腹をまっすぐに抉った。引き抜きざまそのまま後ろを振り返り横に薙ぐ。背中を狙って剣を振り上げていた侵入者の腹が横一文字に引き裂かれた。鮮血が飛ぶ。ユンの肩の辺りに真っ赤な飛沫が散った。
ゆらり、と新たな影がユンの前に立ち塞がった。殺気が目で見えるのならば、それは白い炎のように揺らめいていることだろう。ユンはぐっと剣を握り直した。
(…できる!)
雑魚ほど殺気を剥き出しにし垂れ流すものだ。極限のそれを制御し、なおかつ身の内に滾らせている今目の前にいる相手は、ユンも久々に巡り合う好敵手のようだ。布で覆っているので顔立ちは分からないが、こちらを見据える黒い瞳は炯々と光を放ち、ユンの頭蓋骨を刺し貫く勢いで睨んでくる。
上段から振り下ろされた一撃を受けた。ガツン、と肩先まで響く重さだ。ガッ、ガッ、ガッ、と続けざまに火花が散りそうな程の激しい打ち合いの果て、ユンが目に見えぬ程の速さで下から掬い上げるように剣先を飛ばした。
「っ!」
それでもその速さに惑うことなく弾かれて、ユンは血が甘く滾るのを感じた。口元が笑みの形に緩む。狭い部屋の中で動きを制限されながら、力で押してくる相手の動きの隙を突いて、死角を攻める。相手も負けじと咽喉下を狙って繰り出した剣を皮一枚で避けた。息もつかせぬ攻防。ユンの瞳がふっと細められた。
身軽く寝台を越え、掛けられていた布団を引き裂くと、詰められていた羽毛が一気に舞い上がる。そのまま剣で捲くり上げると目の前の相手に投げ付けた。焦ったようにそれが払いのけられようとした瞬間、「ぐう」と呻き声が漏れた。
布団と共に相手の懐に飛び込んだユンの剣が脇腹に刺さっていた。しかしそれは到底致命傷になり得ない浅さで、ユンは苛立ったように身を引いた。
「引け!」
黒い布越しに放たれた鋭い声で、まだ動ける者達は一斉に窓に向かい身を消した。窓際に駆け寄り後を追おうとするユンの肩に、手が掛かった。
「深追いするな。ヴィヴィエが追う」
落ち着いたオルフェリウスの声に、ユンはほっと力を抜いた。振り返ると、髪を乱れさせ剣呑な光を瞳に宿していたオルフェリウスも、どこか安堵したような表情を浮かべて息を吐いた。
「オルフェリウス様…お怪我はございませんか?」
「ああ。私は大丈夫だ」
オルフェリウスは肩に掛けていた手をそっと滑らせ、ユンの腕を撫でた。
「痺れはどうだ?」
「すぐに吐き出しましたから。即効性の毒薬でしたが、私には耐性がありますので…」
暗殺には往々にして毒物を使う。使う限りは、自分にも耐性を付けなければならない。ユンは幼い頃から毎日の食事に少量の毒を混ぜて摂取し、大抵の性質の毒に耐性をつける訓練を受けていた。暗殺を恐れる王家や有力貴族などでも自衛のために良く取る手法である。
「食事の後でしたから、効きが遅かったのが幸いでした」
「わざわざ毒まで仕込んだのに、貴女には無駄だったな。それにしても、この部屋…」
あらゆる家具や物が壊され、流血の跡が生々しい床や壁の至るところに羽毛が散らばっている惨状を、オルフェリウスは半ば呆然とした様子で見渡し絶句した。
「今夜も野宿、ですか…?」
ユンの呟きが虚しく部屋に響いた。