第2章 蒼天の鏡
際会-3
二人は部屋に戻っていた。
あれから、ユンの言葉を胸の奥にじっくりと落とすかのように、ただ黙って宙を睨んでいたオルフェリウスは、ふっと息を吐くと頭を振り、「シュカとモデナも腹を空かせているだろう」と言って倉庫にユンを促した。管理の者に生餌を頼むと、慣れた様子で手際よく用意された。魔獣の食事風景はそう気持ちのいいものではない。きちんと充分な量が与えられていることだけ確認して、二人は宿に戻った。随分酒場の中は賑わっており、早めに食事を摂らないと賄いがなくなってしまいそうな勢いだったが、オルフェリウスが部屋に戻るのにユンは黙って従った。そして今、二人でベッドに腰掛けている。ひとり用の狭い部屋なのでここしか腰掛ける場所がなかったのだが、ユンは並んで座ることに落ち着かない様子で、オルフェリウスの顔をちらりと見上げた。
「さっきの話の続きだが」
オルフェリウスはユンとは視線を合わせず、ゆっくりと切り出した。
「私は乗り越えたと言ったが…駄目だな。所詮口先だけのことだと、はっきり分かった」
考え込むように一瞬口を噤んだ後、続ける。
「私が生まれてしばらくして、魔力がないと判った時…母はとても取り乱したらしい。レイノールと比べれば劣るが、それでも名門のフラウナールから嫁いだ母は、それなりに己の血統に誇りを持っていた。公爵の血を持って魔力がないとは、自分に何か欠陥があったのではないか。それに口さがない社交界では、卑しい男との不倫の子なのではないかなどと噂する。一時は床に伏せるくらい悩んだそうだ。人並みに魔力があるラディエスカが生まれるまで随分肩身の狭い思いをした…恥ずかしい思いをしたと、母が人に言うのを聞いたとき、私は」
オルフェリウスの体が揺れた。
「私は…」
ぎゅっと眉間を寄せ、ひどく苦しそうに顔を歪めたまま、オルフェリウスは絶句した。
「理不尽なことをおっしゃるお母様を、憎いとお思いになりましたか」
その声は静かに響いた。
「それとも、ラディエスカ様を羨ましいと妬まれましたか?」
オルフェリウスはユンを見た。ユンの顔は、まるで凪いだ海のような、静けさに満ちた真面目な表情を浮かべていた。そこにはオルフェリウスを揶揄しようとか嘲弄する意図など全く見られなかった。だから、オルフェリウスは自分でも驚くほど素直に、口に出すのをためらった醜い感情を認めることができた。
「憎しみも嫉妬も、確かに私の心の中にある」
ユンは微笑んだ。まだ少女とは思えない、深い慈愛を含んだ笑みに、オルフェリウスはそこから目を逸らすことが出来ずじっと見詰めた。
「私は、ずっと、女の器で生まれたことを恨んでいました」
ユンは、遠くを見るような眼差しをして言った。
「私が生まれてしばらくして母が亡くなり、父は周囲の忠告も聞かず、後添えは生涯娶らないと公言しました」
それ故リシュリューに直系の男子が生まれる希望はなくなった。ならば養子を迎えてはどうかと、己の利害を含め親戚筋はこぞって説得を行ったが、当時のリシュリュー公爵、ユンの父であるガルナゼインは一切聞き入れなかった。
「結局、父の意思を変えることは出来ず、リシュリューの後継は私に決まりました。周りは女ごときに何ができるのだとか、女の幸せを追えない私が可哀想だとか、非難や同情に溢れたらしいのですが、父は頓着しなかった」
「頑固な方だったのだな」
ユンはくすくすと笑った。オルフェリウスの瞳も、ようやく和んだ色を見せた。
「はい。父はこうと決めたことは絶対に枉げないことで有名でしたから。でも私自身は嬉しかった。血を吐くような厳しい訓練に涙を流したことは何度もありますが、期待に応える事のできる自分が誇らしかった。しかし、やがて女の体の限界を知って…」
女と男では体の構造が根本から異なる。成長するにつれ、丸みをおびてくる体。男なら鍛えれば骨を断つことなど容易く出来るものを、女では非力で無理だ。戦い続ける体力もない。おまけに月に一度の穢れ…その時ばかりはどうしても体が弱ってしまう。本当に不自由な、束縛された容れ物。力という意味では、やはり女は男よりも決定的に欠けている。
ユンは溜息を吐いた。
「でも私は決して諦めたくはなかった。父にもう無理だという言葉だけは何があろうと絶対に言いたくなかった。男に負けてなるものかと、無茶を承知で体力のぎりぎりまで体を痛めつけ、訓練を重ね、限界まで筋力を鍛えました。もちろんそんなことを長く続けられる訳もなく、そのうち体の不調が精神にまで影響を及ぼし、周りが気付いた頃には私はボロボロになっていました。決して得られないものを求める代わりに、今自分が持っているものを育てればよいと気付かせてくれたのは…私が騎獣舎でオルフェリウス様に言ったあの言葉です」
「欠けたるが人間?」
「そうです」
それを言ってくれたのは、当時ユンにつけられていた教師だった。幼い頃から容赦なく勉学を教え込み、冷徹で厳しい印象しかなかった教師が、ある日突然言った言葉。
「その言葉を理解してから、女であるということを否定しなくなりました。剣で骨を断つことを諦め、瞬発力と速さで関節を狙う。体術では相手の力を利用し、正確に活殺点を突く技を身に付ける。女の私でも戦えるように。そしてオルフェリウス様も…」
ユンはオルフェリウスの瞳を覗き込むように見上げ、小首を小鳥のように傾げた。
「オルフェリウス様は今、聖騎士団でも高位に就かれている。聖騎士団は他の騎士団と比べても、魔力の才が階級に及ぼす影響が多いと聞きます。オルフェリウス様は魔力の有無に捉われず、きっと他の才を磨かれたのでしょう。それは…私には想像もできない道程を歩まれたからだと思うのです。今は乗り越えられずとも、いつか遠い所へ辿り着ける強さを、もうオルフェリウス様はお持ちです」
オルフェリウスはユンの言葉に否定も肯定もしなかった。ただ、潤みそうになる瞳を誤魔化すように瞬きをして、
「ありがとう」
と答えた。万感の思いを込めて。
「いえ、あの、」
自分の言ったことが急に恥ずかしくなった様子で、ユンは顔を赤らめた。
「出過ぎたことを申し上げました……」
いつの間にか熱く語っていた自分に羞恥が湧き上がってくる。年上で、レイノール公爵家の嫡子で、聖騎士団で王の信頼を得ている人。そんな人物に対して一体何を偉そうに言っているのか。
「魔力がないというのは劣等感だった。しかしそれを認めるのは、誇り高いレイノールの人間として恥ずかしいことだと、今まで誰にもこんな話はしたことはなかったよ」
恥じ入るユンをまるで元気付けるかのように、オルフェリウスは優しく言った。
「貴女に話すことができて、もしかしたらこれが自分に向き合っていけるきっかけになるかもしれないと思う。だから、ありがとう」
ユンが顔上げると、オルフェリウスは柔らかく微笑んでいた。それは騎獣舎で見せた微笑とは異なる、心の底からの笑みだった。
部屋が沈黙に満ちた。
オルフェリウスが見下ろしたすぐそこに、ユンの顔がある。戦っている時に見せる猛々しさなどまるで嘘のように、今はまるで子供のように無垢で無防備に見える。ユンの瞳は、怖れを感じるほどまっすぐにこちらを見詰め返していた。
湧き上がる衝動に任せ、ユンの腰に腕を伸ばしゆっくりと抱き寄せた。しなやかな身体は想像よりも小さく、オルフェリウスの腕の中にすんなりと納まる感触が心地よい。特に抵抗の様子がないのを確かめてから、顔を近づけて、花びらのようなふっくらとした唇にそっと触れた。オルフェリウスの彫りの深い顔が近づいてくるのを、ユンはただじっと見ていた。
短い、優しいキスの後で目を開ける。
オルフェリウスがこれほど近くでユンの瞳を見たのは初めてだった。濃い紫色の奥底に、金色の光が揺らめいている。静かで、だが驚嘆するほど力強い光を湛えた瞳。
きれいだ。
だから、ユンの頬に触れ、もう一度柔らかい唇に唇を触れさせた。そして二度、三度。啄ばむように口付ける。
「……ユン」
わずかに困惑をにじませた声で、オルフェリウスが囁いた。ユンはぱちりと瞬きをする。
「はい」
「その……目を閉じてくれないか…」
「あ―――はいっ」
ユンは白い頬を赤く染めて、慌てたように瞼を閉じた。それをくすりと笑って、嫌がられていないことに安堵しながらまた口付ける。強く唇を合わせると、徐々にオルフェリウスは自分の抑制が効かなくなってくるのを感じた。
もっと深く触れ合いたい。
もっと深く。
固く結ばれた唇を舌でゆるりと愛撫すると、しばらくして躊躇うようにおずおずと開かれた。全く慣れていない様子がひどく愛らしい。そのままユンの舌を強引に絡め取る。
「ん…」
ユンが咽喉の奥で声を上げるのを聞いて、カッと身体が熱くなった。頬に当てていた手を、耳の後ろから首筋へ下ろし、指先で背筋をなぞった。
ピクンとユンの身体が跳ね、それに驚いたように唇が離れた。
「あ…」
長いまつげに縁取られた瞳は濡れたように輝き、頬は上気して桃色に染まっている。うっとりと開いた唇から覗く舌が、とても扇情的で。思わずもう一度抱き寄せようと腕に力を込めようとしたその時、
「オルフェリウス様、お食事の時間が…」
ユンのか細い声で我に返る。
「あ、ああ…そうだな」
我ながらおかしくなる程の狼狽を見せ、オルフェリウスは体を離した。しかし手の中の温もりを手放すのがどうしても惜しくて、廻した手はそのままに、ユンの額に額を合わせた。
「ユン…私は…貴女が女であってよかった」
ユンの瞳の奥を覗き込む。
「どうやら私は、貴女に惹かれているらしい」
しばらくぼんやりとオルフェリウスを見返していたユンだったが、段々とその台詞の意味を解したようで、耳まで赤くなっていった。
「あの。たぶん…よく分からないのですが…」
逡巡するユンの言葉を、オルフェリウスは辛抱強く待った。
「私も、オルフェリウス様に惹かれていると…ですが…今まで恋とかそういうものには無縁でしたので、よく、分からないのです」
恥ずかしいのか、最後は早口で言い切ったユンに、オルフェリウスは声を出して笑った。
「すまない、貴女があまりにも正直なので」
くっくっと込み上げる笑いを無理矢理収めながら、
「分かったよ、貴女の心がはっきり決まるまで、私も焦らず精進することにしよう」
とひどく楽しそうに囁いた。
一体オルフェリウスが何をどうするつもりなのか全く分からないまま、ユンはとりあえず
「はい」と返事を返した。