The Furies

第2章 蒼天の鏡

際会-2

肩先まである艶やかな紺碧の髪を綺麗に後ろに撫で付けた男は、窓の外を眺めながら口を開いた。

「…そうか。この宿に入ったのだな」

「先程部屋でエスパルスと接触したようです」

「それでは我らの気配を気取られるのも時間の問題であろうな」

「でしょうが、こちらには二重に障壁を張りましたので、不用意な攻撃を受ける心配はございません」

背後に控えた男に、冷笑を返した。

「まさか攻撃を仕掛けてくる程相手も愚かではあるまい」

「はっ。しかし、こちらの話の内容が漏れる虞もありますので…」

「うむ。そうだな。派手な障壁でかえってこちらに注意を惹き付けることもできよう」

切れ上がった眦に、色素の薄いブルーグレーの瞳は、対する者になおさら酷薄そうな印象を抱かせる。ハイラル帝国宰相として世に聞こえたナダ=フィヒテ・イヌマは、まだ三十台の若さでありながら、現皇帝が即位後勃発した反帝政勢力の内乱を収め、新たな武力組織を構成し、絶対的な階級制度を確立させた“皇帝の懐刀”と呼ばれる男である。

「宿を借りた時の様子では、どうやらエウ・パナーゼが目的ではないようです」

「ほう?」

イヌマは器用に片眉を上げ、口元を歪めた。

「それは都合が良かったような、悪かったような…とにかくここでしくじっては陛下にお顔向けができん。我々に失敗は許されん。くれぐれも慎重に事を運べ」

「はっ」

深々と頭を下げる男には一瞥もくれず、イヌマは雨に煙る景色に目を当てたまま歌うように口ずさんだ。

「『暁の光と射干玉の闇に運命の輪は巡る』」

冷たい瞳がぎらりと輝いた。

「…運命の輪を廻すのは我々だ」


◇ ◇ ◇


騎獣舎の中は乾いて暖かく、雨に濡れそぼったシュカとモデナも伸び伸びと寛いでいるように見えた。外で狩りをさせるわけにもいかず、二頭には長い間生餌を摂らせていない。大きな宿場に設置されている騎獣舎では、そういった物も手配してもらうことができるので、ユンはここの管理者に声を掛けようとオルフェリウスと共に倉庫に向かおうとした。

ガシャンッと檻に身体をぶつける音がし、ふとそちらに目を遣ると騎獣がいた。大きい。全身を爬虫類のような鱗にびっしりと覆われ、短めの足は太く鋭い爪を持っている。初めて見る種類の魔獣に、ユンは足を止めた。

「有鱗の亜種か。珍しい魔獣だな」

オルフェリウスも観賞するようにその魔獣を眺めた。そうするうちにますます激しく檻に逞しい尾をぶつけ始め、どうやらこちらを威嚇しているようだ。ユンは愛剣に手をかけ、ゆっくりと自分の内の魔力を身体中に巡らせた。柄にかけた左手から流すように、魔力の流れを意識する。「暁の光」と名付けられているユンの剣は、魔力を増幅させてくれるのだ。それにメゾネスと同様の力があることを、誰に教えられたわけでもないが、ユンは幼い頃から知っていた。魔力を練り上げ、大きく外に膨らませていく。するとその魔獣はその威圧に押されるように少しずつ静かになり、やがて檻の中に蹲った。

「貴女ならすぐにでも騎獣の涵養員になれそうだ」

オルフェリウスの言葉に、ユンは魔力を収めると、肩を竦めた。

「魔力の捌き方も色々な方法で訓練させられましたから…。そもそもの私の魔力はたいしたものではありません。オルフェリウス様こそ、私よりももっと自在に魔力をお使いになれるでしょうに」

オルフェリウスの返事がなかった。どうしたのかとユンがオルフェリウスの顔を覗き込むと、オルフェリウスは微笑んだ。

「実は私には魔力がなくてね」

ユンはハッと息を止めた。

「いや、それについては私も悩んだ時期があったが…今では乗り越えたつもりだ。周知の事実だし、貴女にも気を遣わないで欲しい」

オルフェリウスの微笑みは消えない。

「その代わりと言おうか、ラディエスカに才があってね。あれの魔力は聖騎士団でも一、二を争うほどだ。私の分の期待を背負ってもらって申し訳ないが、毎日厳しい訓練続きで。訓練から逃げ出しては、お目付け役の者にガミガミと説教されている」

確かにラディエスカはメゾネスを嵌めていた。だが、オルフェリウスは嵌めていない。そのことには気付いていたが、魔力がないとは知らなかった。ユンは奴隷身分であったということもあるが、噂などには酷く疎い。市井の民で魔力を持たない人間は多くいる。だが、叙爵された貴族で魔力が全くないのは稀有だった。それでは世間ではかなり取り沙汰されたことだろう。

下手な慰めの言葉や同情の言葉は、言いたくないと思った。かといって、この話題をなかったことにして次の話題に移ろうとするオルフェリウスにも従いたくなかった。何故か、今はそうしてはならない気がしたのだ。ユンは乾いた唇を湿らせ、言った。

「欠けたるが人間。私にそう言った人がいます」

オルフェリウスの瞳をまっすぐに見詰めた。常は柔らかさを湛えた琥珀色の瞳が、今は暗く翳っているように見え、ユンは懸命に言葉を紡いだ。

「何もかも満たされている人間などいはしない。欠けているものを満たしたいからこそ、人は生きるのだと。私も欠けた人間です。満たしたいがために生きている」

瞳を見つめるユンを、オルフェリウスもまたじっと見詰めていた。

その口元にはもう微笑みはなかった。




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