The Furies

第2章 蒼天の鏡

解纜-6

ユンはオルフェリウスに外で待ってもらうよう申し出たが、部屋まで着いて行くと言われ渋々案内した。奴隷部屋は陽も射さない湿気の多い地下にあり、そんな所にオルフェリウスを連れて行くのは躊躇われたが仕方がない。狭い部屋に招き入れると、オルフェリウスは素直にユンが出した古びた木の椅子に腰掛けた。

「顔を見られてバレないかとヒヤヒヤしたが、私も自意識過剰だったな」

先程のゼフィーとのやりとりを思い出して、オルフェリウスは朗らかに笑った。

「もちろんアドレアでオルフェリウス様のことを存じ上げない方はいらっしゃらないでしょうが、何分ここは田舎ですから…。それに娼館の主人に顔を知られていないということは、返ってご名誉なことなのでは?」

ユンも微笑んで軽口を叩きながら、粗末なベッドに腰掛けてオルフェリウスに向かい合った。

「それにしても、ナパ家とは…何かご縁でも?」

「伯母がナパ家に嫁いでいてね。身分が違うという家族からの反対を押し切って、駆け落ち同然で出て行ったそうなんだが。それが今では、大商人と太いパイプを持ったことが公爵家にとっても大きな利益に繋がっていてね。何かと頼りにしていて、あちらでも利便を図ってくれている。まぁ、お互い持ちつ持たれつといった関係かな」

「それで、アルストロ・カラジェさんとおっしゃる方は?」

「実はアカデメイアの同窓生で、私の推薦でナパ家の弁理人になった奴でね。何かと恩を売ってあるから、こういう時に利用させてもらっている。事情を話してあるので、何か探りを入れられても心配はない」

オルフェリウスのすることだから、きっと抜け目なく手を廻してあるのだろう。破格の値の取引きにゼフィーが後々疑問を持ったところで、ユンはあくまで一介の奴隷で、ナパ家で使われていることになっているはずだ。リシュリューに関することは絶対に誰にも知られたくないユンにとって、有難いことである。

「オルフェリウス様は、アカデメイアをご卒業になられたのですか?」

貴族の子弟は専属の家庭教師が付き、家で教育を受けるのが一般的だ。ユンにも家を離れるまでは優秀な教師が付けられていた。元老五家に属する程の家柄の人間がアカデメイアに通うのは非常に珍しい。

「ああ、ユリウス王がアカデメイアに進学したためにね。いわゆる『きちんとした』ご学友が必要だと言われて、私も入学させられた。いや、当時は分からなかったが、今では進学してよかったと思っているよ。そのお陰で随分面白い友人連中と出会えたからね」

「と、いうことは…ユリウス王とオルフェリウス様はご友人同士なのですか?」

オルフェリウスは頷いた。

「友人と言っても、ユリウス様の方が年長で学年も違うが。本当にあの方は立派な方で、私も尊敬申し上げているよ」

「そう…ですか」

ユンはそこに掛けているオルフェリウスの顔を見直した。豪華な金髪に端整な顔立ち。指先一つに至るまで洗練されていて、埃っぽい旅装姿でも一目で上流階級の人間だと分かる。この目の前に座る人は、この国の王と近しい人らしい。どう考えても、このような奴隷部屋に長くいていいような存在ではない。ユンは腰を上げた。

「ここを出て行くと言っても、元々何も持っていないので、持ち出すものなどないのですが…」

と言いつつ、おもむろにずるずるとベッドを引き摺って壁際から移動させ、現れた床下の小さな羽目板に指を挿し込み持ち上げた。そこには空洞があり、ユンはそこに屈み込むと中を探った。

「それは…?」

ユンのすることを黙って見ていたオルフェリウスが、怪訝な様子で尋ねた。立ち上がったユンの手には、頑丈な装丁の一冊の本が収まっていた。ユンがぱらりと中を捲って見せると、そこには細かい書付の文字がぎっしりと並んでいる。本ではなく、帳面らしい。

「私があの時持ち出せた物は、私の剣とこれだけでした」

そっと細い指で文字をなぞる。

「これは、リシュリューの『奥秘の書』と言われるもの…」

「…まさか…」

オルフェリウスの顔がすうっと強張った。ユンが言った言葉だけで、それが何かを察したらしい。ユンの紫色の瞳が暗く翳った。

「父に大事があったら、必ずこれを持ち出すようにと言われていました。あの日の混乱の中、父の言い付けだけは守らねばと…。一度は焼き捨てようかとも思ったのですが、結局それは私にはできなかった」

ユンは唇を噛み締めた。それは、リシュリュー公爵家が手掛けた仕事の記録。王命の暗殺の記録書であった。公になれば、ゼナス国の王家を滅ぼす程の大スキャンダルになるのは間違いがない代物である。密かに『奥秘の書』と名付けられ、存在すると実しやかに宮廷内で噂になったことはあったが、実物を見た者は誰もいなかった。オルフェリウスはそれと察した自分の勘が正しかったのを悟り、青褪めた表情で眺めていたが、手に取ろうとはしなかった。

「いつか、これを王にお返しできる日が来るのではないかと、そう思って手元に残しているのです。その日が来るまで、私がこれを守りたい」

そう言い切り、ユンはそれを大切そうに閉じ荷袋に納めた。もし、不意の出来事でユンが命を落とすようなことがあれば、それはすぐさま悪意を持つ者に利用され、ゼナス国に取り返しの付かない影響を与えるだろう。だから、ユンがそれを持つということはその間「自分は人の手にかかって決して死なない」という、決意の表れでもある。そして、敢えてここでオルフェリウスの目に晒したのは、自分と共にいる時に何かあれば、オルフェリウスがよいように計らってくれるだろうと咄嗟に考えたからだった。

「今の私の、価値がある持ち物はこれだけしかありません」

自嘲するようなユンの言葉に、オルフェリウスは思わず詰めていた息を吐き出して言った。

「君の腕とその剣、それからその保険があれば怖いものなしだと思うけれどね」

価値以上の価値を己の手に持ちながら全く無自覚のその様子に、オルフェリウスの呆れたように呟いたが、どうやらユンの耳には届かなかったようだ。

「とりあえず、それの存在を知られないようにしないと。我々の任務どころか命が危うい…。さ、貴女のこの部屋での用事は終わったようだし、一刻も早くアジェロに向けて出立しよう」

ユンの背に手を当てて部屋の外に促しながら

「と、そうだ、その前に…」

オルフェリウスは手の中に握り締めていた鍵を差し出した。

「自分で外すか?」

奴隷の輪を解く鍵。ユンの桎梏の鍵であった。錆びたそれを黙って見詰めた後、ユンはこくりと頷いた。

鍵穴にも錆が付き、差し込むのにも手間取ったが、やがてそれはかちりと小さな音を立てて足首から離れた。自由になった足を持ち上げてみると、その鉄の輪以上の軽さを感じる。今まで縛られていたのは、身体だけではなく、心もだったのだとユンは思った。だが、自分を制するものが無くなった今、表に向かって開けられた扉を前にして立ち竦む自分がいる。

「それはここに置いていけ」

見上げたユンの頼りなく揺れる瞳を覗き込むようにして、オルフェリウスは微笑んだ。

「自由になったが、君には使命がある。一緒に行こう」

一緒に行こう。

その言葉はユンの心を急速に惹き付けた。ひとりじゃない。扉の外に広がる美しい世界に誘い出してくれる暖かい手。今だけでも、その手を取ることは自分に許されているのだろうか。

「はい」

答えたユンの顔は、眩いほどに輝いていた。たとえ最後に行き着くところが復讐という名の闇の中であろうとも…今だけは。




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