第2章 蒼天の鏡
解纜-5
館の中は静まり返り、薄暗かった。今まで掃除以外では決して触れてはならないと言われていた、複雑な模様のつづれ織りの赤い絨毯を踏んで、ユンは案内されるままオルフェリウスと共に談話室に入った。ここは、女を買いに来た男たちが待合を兼ねて寛ぐ部屋である。初めて客としてそこに座ったユンは、興味深げにぐるりと辺りを見回した。
「まぁまぁ、お待たせして申し訳ありませんわね。何分夜の仕事なもので…太陽の神エダムの顔を拝むことなんて珍しい毎日を送っているものですから」
ゼフィーはおそらくまだ寝起きだったのだろう、いつも厚い化粧の下に隠している弛んだ素顔を不機嫌そうに歪めながら部屋に入ってきた。しかし、オルフェリウスの姿を目にするなり、あからさまに表情を変えて「さっさとお茶をお出ししな!」と入口に控えていたダナを叱責した。
「いえ、こちらこそ突然の訪問をお許し下さい。本来なら、ご連絡を差し上げてからお伺いしなければならないところを、快くお会いして頂けた事に感謝致します」
立ち上がったオルフェリウスは差し出されたゼフィーの手を取ると、礼儀正しくその甲に口付けた。その洗練された仕草に、ゼフィーはミルクを舐めた猫のように目を細めた。
「アルストロ・カラジェさん…とおっしゃったわね。今日はどんなご用事で?」
向かい側の椅子に腰を下ろしたゼフィーが尋ねた。
「はい。実はこちらのユンのことでお話に参りました」
そこでようやく、ゼフィーはユンに目を向けた。ゼフィーの中で今までこの場にいないもののように扱われていたユンは、急に自分に視線を向けられて居住まいを正した。出て行った時とは違うユンの颯爽とした旅装に、ゼフィーは上から下まで不躾に視線を這わせた。
「私はアドレアで商売をしているナパ家の代理人としてお伺いしました。今日のお話の全権を委任されています」
「ナパ家…?ナパ家と言うと、あの、貿易商の?」
「はい。ご存知でいらっしゃいますか?」
オルフェリウスはにっこりと笑んだ。ゼフィーは釈然としない様子ながらも、どうやら自分に利益のありそうな話だと見当を付けたらしい。愛想良く口を開いた。
「アドレアのナパと言えば、長年王室から勅許を賜ってる由緒ある商家ですわね。でも、何故?このユンがどうしたとおっしゃるのかしら?」
「実は先日、私共が商品を街中で運搬中、賊に襲われたのです。こちらの者の手助けのお陰で、商品も護送の者も無事で済みました。その時、その腕を見込んだ主人が、我が家の用心棒として迎えたいなどと言い出しまして。聞けばこちらの持ち物だとか…。いきなりで失礼なお話なのですが、お譲り頂けないか、ご相談に上がった次第です」
ゼフィーの目がきらりと光った。どれだけ自分に得になる話なのか計算しているに違いない。その透けて見えそうな頭の中を想像して、ユンはうんざりした気持ちになった。だが、ゼフィーは別に悪党ではない。ただ、お金に汚いだけだ。
「そう…それは弱りましたわ。これはなかなか役に立つ子なんでねぇ。お譲りすると言っても、それは…ねぇ…」
勿体ぶっているのは、「条件如何による」ということである。オルフェリウスはさっさと用意してきた文書を取り出した。
「契約書です。こちらに書かれている金額で買い取りたいのですが、いかがでしょうか」
ゼフィーはその文書を覗き込んだ。書かれている数字を見て、息を吸い込んだのが分かった。
「そ、そうですわね。なかなかいい線だと思いますわ。で、でも、この子がいなくなるとウチも手が足りなくなりますしねぇ…なかなか見場のいい子だから、おいおい売り出すこともできると踏んでたんですよ。それに今まで入ってきたお金もなくなると、」
「マダム」
遮られたその声音に、ゼフィーはオルフェリウスの顔を凝視した。
「無理を申し上げているのは重々承知しておりますが、欲を掻けば失うものもまた大きい…と申しますよ。私共はこれが相応の値だと思っておりますが?」
隣に座っているユンまで、その凍るような威圧感に気圧された。さすがのゼフィーも、オルフェリウスの口元に刷かれた冷笑と視線に顔の色を失い、しどろもどろで答えた。
「そ、そうね。ええ、ええ、よく考えてみれば妥当な金額かもしれないわ。もちろん手放すのは惜しいのだけれど…」
ユンは思わず目を閉じた。値を吊り上げそこなったため、社交辞令で気まぐれに付け足されたひとことだろう。でも、少しでも惜しいと、そう思ってくれてたらいいと思った。ここで過ごした時間は、決して短くはなかったのだから。
「交渉成立ですね。ありがとうございます。ではこちらとこちらに署名を頂けますか?」
奴隷は物だ。物に意思など必要ない。分かってはいるが、自分を置き去りにしたまま手際よく進められていく契約に、ユンは一抹の寂しさを胸に抱えて、筆を走らせるゼフィーの手元を見詰めた。この稀にみる大儲けの機会に、冷静を装いつつもゼフィーの手は興奮に震えていた。
「それでは、こちらをお納め下さい」
控えを受け取ったオルフェリウスは、金の入った皮袋を差し出した。ひとつ、ふたつ…ユンは袋の数の多さにぎょっとした。一体いくら支払うつもりなのか。ゼフィーはそれらを受け取り、そそくさと席を立った。暫しの後部屋に戻ったゼフィーの手には、皮袋の代わりに鉄の鍵が握られていた。
「これがその子の桎梏(しっこく)の鍵」
「確かに」
オルフェリウスは立ち上がり、その鍵をしっかりと受け取った。
「ユン、私物はどこに?」
私物などないも同然だが、次に来る奴隷のために自分の部屋を空けなければならない。ユンは立ち上がった。そして、右手に握り締めていた袋をゼフィーの方に突き出した。
「これ、この間の仕事の分。400フィール入ってる」
ゼフィーは受け取ろうか受け取るまいか微かに逡巡を見せたが、結局それを掴んだ。
「こんなことになるなんて思ってなかったがね。ま、身体張っていい仕事しな」
それがゼフィーからの最後の手向けの言葉だった。