第2章 蒼天の鏡
解纜-4
相手の両手と両足から繰り出される独特のリズムを捉えることが出来ず、ユンは苛立ちを感じつつ刃先を弾き飛ばした。ひゅん、と耳元で空気が唸る。それでもしばらく巧みに攻撃をかわすと、ユンは呼気を止めて愛剣を一閃させた。
「ぎゃあ!」
叫び声が上がり、血飛沫が跳ねた。ドスッと足元に何かが転げ落ちる音にも構わず、ユンは素早く次に襲ってくる攻撃に集中した。
背中にはぴたりとオルフェリウスがついている。ユンが左に動けば左に、右に動けば右に。そんな風に、己に向かってくる敵を相手にしつつ背後の動きに合わせることの難しさを、ユンは知っていた。今まで実戦で背中を人に預けた事はない。預けられる程の腕の者に出会ったことはなかったし、それが出来るほど信頼できる人間もいなかった。しかし今初めて、背後を気にせず戦うことのできる自由を得て、ユンは常になく大胆に剣を振るっていた。オルフェリウスと出会って間がないにも拘らず、ユンは確かに彼を一流の騎士だと感じ、その人間性に信を置いていた。
夜目はきく。物心のつく前からの厳しい訓練によって、殺気も読める。次々に懐に飛び込んでくる執拗な攻撃に手を焼きながらも、ユンは確実に攻撃してくる者たちを退けた。
何人か相手をした頃、夜気を切り裂くピィッという甲高い笛の音が鳴り、それが合図だったのか、出てきた時と同じくらいの唐突さで影は消えた。
「大丈夫か?」
「オルフェリウス様こそ」
互いの無事を確認して、二人は息をついた。
「来るとは思っていたが、早かったな」
「襲撃を予想されていたのですか?彼らは一体何者です?かなりの手練の集団でしたが…」
オルフェリウスはユンの袖に滲む血に気付き、そっとその腕を取りながら言った。
「射干玉の闇を手に入れたら、暁の光を手に入れたくなるのが人情というものだろう?金目当ての盗賊とは到底思えない者達だったから、明らかに狙っているのは貴女の剣だろう。今の奴らの素性は、そのうち分かるはずだ。…ああ、傷は浅いようだな…こちらで手当てを」
そのうちとはどういうことなのか。ユンが疑問を口に上らせる前に、オルフェリウスは蹴散らかされた薪を適当に拾い集め、口火をつけた。瞬く間に暖かい光の輪が暗闇に広がり、ユンをそこに座らせると、荷物の中から消炎効果のある軟膏剤を取り出した。
「かすり傷ですので…」
腕を掴む、男らしい大きな手のひらから熱が伝わってくる。それが何故か恥ずかしくて、さらに恥ずかしいと思ったことに混乱して、思わずユンは身体を引いてしまった。しかしオルフェリウスはそのまま強引に袖を捲り上げてしまい、ユンの白くてほっそりとした腕が肩まで露わになった。細く見えるが、しなやかな筋肉に覆われた、鍛錬を重ねた腕だった。汚れた傷口の周りを清潔な布で拭うと、オルフェリウスは少しずつ軟膏を塗り込んでいった。
「たかが旅行者が、物々しい防具を身に付け不審を買うのもどうかと思い用意しなかったのだが、これではそれなりの物を手に入れた方がよさそうだ。ウィンチを訪ねた後、アジェロに行こうと思う」
アジェロはゼスナ国と隣接するエスベニア公国との国境に位置する山村で、武具の生産地として名高い。多くの武器工房が軒を連ね、国中から精巧な剣や防具を求めて人が集まる。
「実は、テラ・ルーンもそちらで工房を構えているのだ」
「え?確か、王宮内に専用の工房を持っていると聞いたことがあるのですが…」
「数年前に、隠居して余生を故郷で過ごしたいと申し出があり、ユリウス王が承認してアジェロに移った。今でも王族のために仕事を請けることもあるそうだが、滅多なことでは槌を振るわないらしい。アジェロに行くなら彼にも会いに行こう」
ユンはこくりと頷いた。
「私も、二つの剣を打った本人にお会いしたいと思ってました。是非行かせて下さい」
「我々もまだ知らない、剣に纏わる話が聞けるといいのだが…。さ、これで化膿することもないだろう」
オルフェリウスは騎士らしく手馴れた様子で傷の手当てを終えると、ふと焚き火から離れた地面に光るものを見つけた。人の手首から下が切り落とされ、転がっている。先程の戦闘でユンが敵の手首を切り落としたのだろう。立ち上がって、生々しい肉塊に握られているスレイヤーを取り上げた。一通り柄の文様や形状を眺めた後、それを布に包んで荷袋にしまった。何かの手掛かりになるかもしれない。
◇ ◇ ◇
夜が明けてすぐ、二人は騎獣に跨った。ユンは朝靄の立ち籠める中、濃い緑の空気を深く吸い込みながら駆けていく爽快さを堪能した。二頭の足は相変わらず速く、予想していた昼よりも随分早い時間にウィンチに着いた。街に入ってそのまま娼館を目指す。アドレアと同様、なるべく人目につかない道を選んで走っていき、随分外れにある、ユンの五年間に渡る様々な葛藤を飲み込んだ建物に辿り着いた。陽光の下で見る娼館は、夜に見せる淫らで艶のある表情を消し、どこかくすんで目に映った。
ユンはオルフェリウスを誘って裏庭へとまわり、騎獣を繋ぐと玄関へと案内した。自分一人なら裏口から入るのだが、オルフェリウスをそんな所から入れる訳にはいかない。白く塗られた両開きの扉の傍らにある呼び鈴を鳴らすと、随分と待たされた後、人が出てくる気配がした。
「----ユンじゃないの」
怪訝そうに目を細めてじろじろとこちらを見ているのは、同じ下働きをしていたダナだった。何故わざわざ呼び出すんだ、と不機嫌も露わな彼女に、低く柔らかな声が掛けられた。
「早い時間に申し訳ありません。こちらのマダム・ゼフィーにお会いしたいのですが」
その声でようやくユンの後ろに立っている男性の姿に気付き、目を遣ったダナはぽかんと口を開けたまま動きを止めた。オルフェリウスは微笑みながら、噛んで含めるようにゆっくりとした口調で言い募った。
「私はアルストロ・カラジェと申します。お取次ぎ頂けますか?」
開けたままだった口を閉じ、うっすらと頬を染めたダナはかろうじて「お待ち下さい」と言うと、ぎくしゃくとした動きで中に入っていった。
「…アルストロ・カラジェとは誰ですか?」
後ろを振り向いたユンにからかうような微笑を向けて、「実在の人物だよ?」とオルフェリウスは答えた。ここで偽名を名乗ったのは、ユンの存在とレイノールの名前を結び付けたくないのだと容易に察し、ユンはそれ以上何も聞かなかった。
「中にお入り下さい、どうぞ」
暫くの後、幾分かは落ち着きを取り戻したダナが、それでもまだぎこちない様子で玄関の扉を大きく開いた。オルフェリウスが優雅に頭を下げたのに続き、ユンも住み慣れた館に足を踏み入れた。