The Furies

第1章 運命の輪

嚆矢-1

「そう。それでは1000フィールでお願いするということでよいかしら」

目の前で立ち上がりかけた貴婦人に目をやり、ユンは頷いた。

「契約書にサインを入れてお持ちするわ。少しこちらでお待ちになって」

黙って部屋から出て行くのを見送り、豪華な革張りのソファに身を預けてため息を吐いた。これでしばらく生活に困らなくて済むだろう、とようやくユンは安堵した。

周りを見渡し、急に自分の姿に羞恥を覚えて、身を縮める。

何もかもが磨きぬかれた、高価な家具に囲まれた部屋の中、ユンの姿は明らかに浮いていた。 薄汚れた布に穴を開けただけの質素な貫頭衣、いつ風呂に入ったかも定かではない垢にまみれた肌、 くしゃくしゃに乱れた髪の毛…装飾品など身に着ける術もないが、足首にひとつ鉄の輪が はめられていた。 これはゼナスの民なら誰でも知っている、奴隷身分の証である。 事情を知らない者が見れば、 なぜ奴隷ごときが貴族の応接室に腰掛けているのか不審に思うに違いない。

そんな粗末な姿ながら、スラリと伸びた手足や魅力的な膨みを感じさせる胸、襟ぐりから覗くクリーム色の肌などから、 実は少女が磨けばどれ程美しくなるのか、男ならば誰でも想像したくなるだろう。小さな顔にはつんと通った鼻筋に ふっくらした唇が添えられ、そして大きなその瞳--- 長いまつげに縁取られた、煙るような紫色の瞳。 光が入ればそれを金色に反射する、 極めて珍しい虹彩を持つそれは、ひとたび覗き込んだものを魅了して離さない、 妖しい魅力に満ちていた。

「お待たせしたわ。これが契約書。それでは明日から四日間、アドレア往復の警護をよろしく」

部屋に戻ってきた貴婦人は高飛車に言い放つと、顎で入口を指し示した。大人しくその「出て行け」という無言の命令に従って、ユンは一礼すると屋敷の出口に向かった。

「明日、ここに十刻に来い。これは預かってたものだ」

出口で屋敷の警護の者が、ユンが入るときに預けた剣を返してきた。

普通の大剣とは違い、華奢な造りの細身の剣で、鞘には名工が彫ったとみられる、美しい装飾が施されていた。 柄の部分には、大変珍しい、市井では見かけられないような宝石が埋め込まれている。 透きとおった多面体のそれは、陽の光を返してきらりと眩しく輝いた。

「…見事な剣だな。どこで手に入れたものだ?」

警護の髭面の男はユンを不躾にじろじろと眺めて訊いてきた。 その眼差しからは明らかに「盗品だろう」という疑惑が伺える。ユンはひとつため息をついて

「これは生来私のもの。共に生まれてきた姉妹。私以外の誰のものでもないし、私以外のものには従わない」

謎のような言葉を残して、ユンは外に出た。


◇ ◇ ◇


「ユン、帰ったのかい?」

自室に引き揚げようとしたユンを、娼館の主ゼフィーは目ざとく見つけて呼び止めた。

「…ええ」

渋々、と言った様子でユンは答え、ゼフィーのいる中の間へ入った。

「どうせ雇ってもらえたんだろ、お前なら。で、いくらになった?」

「800フィール」

ユンは堂々と嘘を吐いた。

「本当かい?嘘ならただじゃおかないからね」

ゼフィーの追求にもしらっと無表情を通す。

「じゃ、半分の400はウチの取り分だよ。金はいつ手に入るんだい?」

「警護の前に半分、警護の後に半分。だから5日後には渡せるわ」

ゼフィーは満足そうに頷いた。

「どこの誰とも分からないお前を、親切にも置いてやってるんだから。それ相応の恩返しをしてもらわなきゃ困るよ。 でもさ、お前ならこんなみみっちい小遣い稼ぎなんかしなくても、ここの仕事をすりゃあもっともっと稼げるのにねぇ」

全身を舐めるように見ながら、ゼフィーはこれまでユンに向かって何度も言ったセリフを吐いた。黙ってその言葉を聞き流し、肩を竦めて踵を返す。

ベッドと、木の机と椅子以外何もない殺風景な小部屋に戻って、ユンはようやく一息ついた。

「ホンット強欲なんだから」

とぶつぶつと呟き、ベッドに倒れこむ。しかしこれでしばらく娼館での下働きをしなくて済むかと思うと、ホッとした。

別に掃除や食事の用意が嫌いな訳ではない。手がどんなに荒れようともものが綺麗になるのは嬉しいし、時間をかけて下ごしらえした物をおいしく人に食べてもらうということは、存外に喜ばしいことだ。 ユンが馴染めないのは、この娼館という環境だ。いつも漂う甘ったるい匂い。女たちの嬌声と、男たちが漂わせるすえた酒の臭いと煙草の煙。今の自分の立場でなければ、近寄りたくもない所だ。

「男なんてみんな不潔!」

というのが、最近のユンの口癖のひとつになりつつあった。




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