なぜ今退職なのか

 親の期待を感じていながら背いてしまったという気持ちが、しだいに強くなっていったからです。

「市役所職員採用試験を受けることにした。」と私が言った時の父親の言葉は「頑張ってみろ。」でした。親子間の会話が最も少なかったこの時期、自分の中で決定した後で話をしましたけれども、親の言葉はある程度予想していました。

当時、父は有限会社朝倉鉄工所と、共同経営の株式会社の代表取締役とはなっていましたが、病と闘いながらリハビリを続けている状態でしたので、鉄工所の施設・建物は借りてくれる方に借りてもらい、徐々に不動産賃貸業にシフトしていき、株式会社は他の共同経営者が実質的な経営者になりつつありました。

公務員として採用された時、両親とも喜んでくれました。自宅から通えるところに就職したことで素直に喜べたのだと思います。この時点ではもちろん退職のことなど考えるはずもなく、定年まで勤めるのだろうと漠然と思っていました。

転機はやはり親の死でした。
私は就職から6年程で結婚しましたが、そのころ父の病状は思わしくなく入退院を繰り返すようになっており、結局父は結婚式に出られず、それから一年と少し後、内孫の顔を見ずに逝ってしまいました。
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公務員である以上、民間会社の如何なる役員も兼ねることは出来ません。できることは相続を引き受け、株主・地主となることだけです。この時に公務員の窮屈さを少し感じました。
母親は元気でしたので、会社の代表・役員を引き継ぎ、私は長男として母を補佐することにしました。母の長い間の看病疲れもいつしか癒え、その後15年程は安泰の期間を過ごしました。
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母の死は突然でした。くも膜下出血で倒れ昏睡状態のまま3日しか持ちませんでした。晩年はバイクに乗ることも諦めていた母でしたが、それでも元気だっただけにあまりにも急なことでした。
相続は否応なしに選択を迫ります。しかも3箇月・半年という期間は当事者にとっては決して長くはない時間なのです。公務員と会社、家族のこと、・・・。

結論は、私の妻を朝倉鉄工所の代表取締役にすること、共同経営の株式会社へは役員を出さず株主・地主として関与することでした。親の生前の教えが良かったせいか、2度の相続でもめた事は一切無く、末っ子で長男の私がほぼ全てを相続しました。姉たちとの関係は今も良好です。

これで、私が公務員を続けられる条件は一応整いました。
しかし、妻の身になればいきなり社長にさせられても戸惑うことも多く、急な要件の場合は私に連絡せざるを得ませんし、私が忙しい時の「任せるよ。」の言葉は冷たく聞こえたに違いありません。

両親共に無くしてみると、自分は親不幸ではなかったかということが頭をよぎります。親の人生は幸せだったんだろうかと昔のことに思いを馳せることもあります。あの時、本当は「修行をして戻ってこい。」と言いたかったのではないかと考えることもありました。

その頃、市役所では勧奨制度の年齢引き下げがあり、私の年齢も対象となることを知りました。
勧奨制度とは早期退職を希望する者に対し、退職条件を若干良くする制度です。
25年勤めて勧奨制度で退職。辞めるにはこのタイミングしか無いとその時に思いました。

親が鉄工所を創業したことと、私が学校で建築を専攻したことは無関係ではありません。いつかは後を継ぐという暗黙の了解がありました。ずいぶん遠い道のりを選んだことから、後を継ぐ形は変わりますが、母の死から2年後、その暗黙の約束に従おうと決めたのです。