「緑」
| きりのはな(おがわまち) |
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このところ、一日外にでない日があると、損をした気分になる。
外の緑が美しいからだ。
ことに晴れた日、前日に雨でも降った日ならなおさら、今出来たてのような新鮮な緑に、光の輝きが加わって、キラキラと緑の宝石のようだ。
4月から5月にかけて、この小川町の山や林の木々は、やわらかい黄緑や若葉緑の点描でうめつくされる。
しかも、日々、木々の葉の色は、やわらかい赤みがかった新芽の薄黄緑色から、夏の濃緑色に、微妙に移り変わっていく。
更にそこに、桐の花や藤の薄紫、しゃくなげや躑躅の赤、たんぽぽの黄などがポイントカラーとして、加わっているのだ。
一日でも、見ない日があると、惜しい気がする。
どうして今年は、こんなに緑が目に美しいのだろう。
去年より増して美しい。
年齢が進んだせいだろうか?。
そういえば、子供の頃は、自然をしみじみ見て、感動するなんてことは、あまりなかった気がする。もっと興味を引く面白いことがあって、そちらに気をとられていたように思う。
私は、子供絵画教室の予定表の頭に、よく自然について書く。
「青葉がきれいですね。日々、微妙に色が変化していて、そのどれもが、新鮮で、美しい色ですね。」
と、いったぐあいである。しかし、この前、小学校から下校する子供達を見ながら、ふと思った。
子供達の目にも、「この木々の青葉は、心をひく美しいものだろうか?」と。
大人達が、「青葉は美しい」と言っているので、それに合わせているだけなのではないだろうか。面白い事は、もっと他にあるのではないだろうか、という事である。
子供の頃、引越しが多く、小学2年生までの3年間は、日光に住んでいた。
今、行ってみると大変美しい。全体ができすぎの自然や建造物の集まりのような所だ。小さい頃親達が、
「こんなに美しい景色の所はない。ここにいったん住んでしまったら他のどの土地にいっても、そこは日光より景色は見劣りするだろう。」
と、言っているのに、風景にさっぱり興味がもてない。親戚の人が訪ねてくるたび、湖やら、東照宮やら、両親が、案内してまわるのに、ついて回りながらも、くたびれて、なんだか面倒なだけだった。
それよりも、当時は、「白鳥の湖」というマンガに夢中で、私はオデット姫を一生懸命描いていた。
それでも、秋の写生大会の時、
「日光の紅葉はきれいた。赤、朱色、黄、橙、赤紫、色々な糸で織られた錦の織物のようだ。」
という言葉をおもいだして、山の木々をいろいろな紅葉の色に描き分けて、賞をもらった思い出がある。
ともあれ、自分が美しいと思って描いたのではなく、まわりの大人の意見に同調して、こういうのが美しいのだと、考えて描いた気がする。
何時からこんなに自然に惹かれるようになったのだろう。小さい頃あまり美味しいと思わなかったトマトが、今とても美味しいと思うように、好みがかわるのだろうか?。
それとも、味も美も学習し、ある時、その旨味や魅力に、気がつくのだろうか?。
よくある議論に、
「もともと美しいものは、美として存在していて、それに人が気がつく。」
というのと、
「人が、美という観念を持って見て、美しいと感じて、初めてその物は、美となる。」
というのがあり、常々、私は、後者だと思っていたのだが、こんなに美しい外の若葉を見ると、前者の、「美はすでに存在している。」という方の意見に賛成したくなる。
ところで、小さい頃は興味が、あまりなかったように思っていた自然の風景なのだが、私のなかには、それが、原風景となっていたようで、まわりに山がなかったり、季節によって色を変える落葉樹の林が無い場所は、落ち着かなくなくなっている自分にある日気がついたことがある。
子供の頃の木々の青葉の記憶は、潜在意識となって、ずっと生き続けていくものなのかもしれない。そして、ある時その魅力に気付く時がくる。
毎年訪れるこの緑の光の饗宴の中、この光を逃すまいと、私は、スッケチブックを広げる。
「さあ、今年は、緑の光達をどう表現しようかな」
と言うと、緑達もさやさやと葉を鳴らして、
「印象派風に、点描もいいね」
2005.5.5 みすず絵画教室 講師 藤森陽子