・・・そうだ、この「僕の歩く道」のように・・・

◆「僕の歩く道」


 フジテレビのドラマ「僕の歩く道」が終わった('06.12.19)。このドラマは結構、印象に残ったので電脳法師的に分析してみよう。
 主人公の、自閉症の32歳の青年が周りの人に助けられながら、動物園で働き、やがてロードバイクのレースに出る夢をかなえ、そして自発的に家を離れグループホームで生きることを決心するまでのストーリーである。主演のSMAPの草g(くさなぎ)剛君が絶品である。もう普通の、健常者の演技などさせるのは、もったいないくらいだ。

 その面白さは最終回によく現れている。自閉症の主人公を助けていたつもりの周りの健常者が、実は逆に助けられていた、ということが明らかになる。この逆説的なことの本質は何なのか、考えてみよう。
 例えば、主人公の甥っ子は、母親から厳しくしつけられ不満を感じているのだ。母親はプライドで子供をとにかくよい学校へと行かせたがっている。ある時、子供のメガネを作るために眼鏡屋に行くのだが、母親もちょっとしゃれたメガネがほしいと、選び一緒に行った子供と主人公にどれが似合うかを聞いた。すると主人公は、「笑った顔」がいい、と答える。母親は、はっとして、子供を追い詰め、愛情がなくなっている自分に気付く。
 また主人公が子供のときから、自閉症であることをよく理解していてくれて仲良くしてもらっている女性がいて、主人公は毎日の出来事を手紙に書いては出している。その彼女が結婚したのだが、夫は妻よりも世間体を気にするような人間だった。そんな夫の性格からだんだん心が離れいく自分に気付き、そして離婚に至る。そこではっきりと、自分が主人公を助けていたのではなく、逆に私が主人公を必要としていたことに気付くのだった。
  ここから分かるのは、周囲の健常者のほうが、かえって自閉症である主人公から何かを気付かされる、ということだ。これがこのドラマのテーマであると思う。

 ドラマを見ていて気がつくのは、主人公は何かが足りない、あるいは何かが無いのである。何が無いのであろうか。

 主人公には、感情が無い。つまり他人を何かしてやろう、他人から何かをしてもらおうとする余計な「思惑(おもわく)」や「企み(たくらみ)」が無いのだ。無関心なのではなく、余計な感情表現が無いのである。自分のいいたい事やしたい事を飾っていない、水増ししていないのである。本質、真実、真理だけをポツンというのである。
 例えば主人公がロードバイクのレースに出たいと思ったとき言うのは、単に「レースに出たい」あるいは「出たい」だけである。
 この場合普通の人間であれば、自分にとってそのレースがどんなに面白く、さも合っていてこれが自分の生きがいだとか、滔々(とうとう)と思わせ振りにしゃべり、誰か周りの人間の賛同なり、同意なり、評価なりあるいは賞賛を得たいと思うのだ。そしてあわよくば、応援に来てもらうとか、何がしかのカンパをもらうとか、何か手伝ってもらうとか、いろいろ期待する。その逆に、何をそんなに舞い上がっているのか、お前には無理だ、似合わない、と反対でもすれば、その言った人間に向かって、俺がこれだけ情熱を込めてやっているのに、何という人非人なんだ、と罵声を浴びせるだろう。
 しかし主人公は、自分の事、思いの丈については全く話さない。ただ「レースに出たい」というのだ。だた淡々と気持ちを言葉にするのである。そして他人の気持ちを斟酌(しんしゃく)しない。何か冷たく非人間的に思えるのだが、しかし、物事を明らかにしそれを伝えるためには、余計な修飾、つまり飾りは不要なのである。
 主人公の飾りの無い態度は、何か清々(すがすが)しさを与えてくれる。また潔(いさぎよ)さを感じさせてくれる。そして人々をして謙虚たらしめるのである。

 考えてみれば、われわれはかなり余分な感情表現の中で生活している。むしろそういう感情表現がよいとされ、推奨される。これはこれで重要なことでもあるが、実際は感情過剰、思惑過剰であることを常に考慮すべきだろう。
 例えば店で商品を売る場合、売り手は客に対して、かなり過剰な表現や振る舞いで購買意欲を誘う。そしてその挙句、客はおだてられ誉められ気持ちがよくなって、買ってしまう。そして次に買いに行った時、そのおだてがなくなると、あの店は良くないと不満な気分になってしまう。結局商品は買わず、あの店はダメだということになる。その商品についての機能、性能は二の次になるのだ。

 それにしても、主人公が何か分からない、理解不能な、行動できないジレンマ的状況に追い込まれると、主人公の好きなフランスのロードレースの暦年の優勝者の名前を列挙する場面は、感心してしまう。人間性の本質というものが現れているようだ。電脳法師も、是非取り入れたくなる。

 電脳法師は、昔から歴史が好きで、結構、年号を良く覚えていて今でもかなり言うことができる。
 「僕の生きる道」の主人公のように、パニックになった時にこう言おう:

375年、ゲルマン民族大移動
538年、仏教伝来
645年、大化の改新
701年、大宝律令発布
710年、平城京遷都
751年、タラス河畔の戦い
794年、平安京遷都
1192年、鎌倉幕府開く
1333年、鎌倉幕府滅びる
1492年、コロンブス、アメリカ大陸発見
1492年、イベリア半島レコンキスタ
1588年、無敵艦隊敗れる
1600年、関が原の戦い
1789年、フランス革命
1868年、明治維新
 ・・・・・・・・・・・・

2007.1.1 電脳法師 

・・・そして、この「僕の歩く道」のように・・・