電脳法師はいつも、講師とともにこの新緑前後の時期になると、そわそわし始めます。
薄紫のカタクリはもう芽を出したか、今年の桜はいつごろだろう、あそこの濃いピンクの桃は去年はもう咲いていたなあ、あの村の黄色い連翹(れんぎょう)はまるで黄色い爆発みたいだ、県道沿いの水が流れるような白いゆきやなぎはどうかな、そしてまさに「萌黄色」の新緑は昨年と比べると3日くらい遅いかな、あの高校近くの格調高い紫の桐の花は多分5月の上旬だろう、大田道灌のヤマブキは八重だけどここのは一重みたいだ・・・、と話をしながら、小川やその近郊をあちこち走り回り、写真を撮ったりします。毎年定点観測しているところもあり、今年は早いとか遅いとか、色がよいとか濃いとかなどと、毎年大騒ぎです。小川周辺ばかりではなく、東秩父やさらに秩父周辺など、春はこの辺りは、まさに珠玉の逸品です。
この小川町近郊は、本当に美しく里山の典型でしょう。電脳法師は他で書いたように、東北や北海道の渓流でつりをしたり、かたや山陰の出雲に住んだりした経験から、それらの山や川の雄大で美しいことは、十分に分かっているのですが、しかし、この関東地方の山里は別格です。というのは、針葉樹でもなく、常緑樹でもなく、巨樹でもありません。むしろ比較的小さな落葉樹が多く、その分柔らかい色と感覚があり、その手に取れるような、風景に思わず見入ってしまいます。
一方例えば東北の、結構、標高の高い渓流ではこうはいきません。植生が異なっており、大きくがっちりした樹が多いのです。ブナは大変大きく、気高く、秀麗な形をしており、大変好きなのですが、落葉樹たちのあの繊細さは残念ながらありません。手に届くようなものではなく、遠くから仰ぎ見るというものでしょう。
この手に届くような、という感覚は重要です。われわれの衣食住などの、身近な伝統的な工芸などを見ても、手に入るような、手で触れるような大きさで、よくできたものが多い。それを器用に作り出すという「ものづくり」の世界が確かにありました。今はこのようなものも失われつつあるのでしょう。ものづくり大学などが創設され、改めて「ものづくり」の良さが見直されてます。この中心には、日本の自然観があると思います。
そこに住んでいる人々に強烈な印象を与えるような日本の自然ですから、その人々の考え方や行動に何らかの影響を与えます。むしろ強烈に環境から教えられかつ学んできたのでした。日本の自然の特徴とは何でしょうか。思いつくままにあげてみましょう。
まずその地理的な条件としては、南北に長く、しかも南は亜熱帯、北は亜寒帯にに近いところです。つまり基本的には太陽はよく照り、人間や他の動植物には最も住み心地がよい温帯地帯にどっぷりつかっています。そしてその位置はユーラシア大陸の東端で大きな海流が出会うところ、つまり黒潮暖流と親潮寒流が日本周辺で出会うわけです。北の魚などの資源やプランクトンなどの栄養分がこの日本周辺に集まってきます。
気候的にはその地理的条件から、「温帯モンスーン」気候であり、気温は温暖で雨が多いのが特長です。紀伊半島の尾鷲では年間降水量が4000mmを超えます。しかも先程の海流と大陸からの季節風の影響で、雨ばかりではなく冬場には、南北に長い日本列島の背骨のような山々の影響で、日本海側には大量の雪が降ります。新潟の秋山郷ではやはり4mの大雪が降ります。
これらの膨大な雨や雪、つまり水が山々の森林の地中に蓄えられ、少しずつ湧き出ししみ出し、小さなせせらぎや流れとなり、さらには川となって、流域の木々や生物、そして人間を生かします。さらに栄養豊かな森の川は、日本独特の急流で一気に海に下ります。そしてその森林の栄養分が海の生物を豊かにし、魚を育てます。海を豊かにするのは、実は陸の森です(魚付林)。過去の大きな文明ではその森の木を切り倒したので、地中海文明のように山もなく、海も貧しく、そして文明も滅び去りました。
これらの気温や水や光(太陽)が、生物、特に植物の生長・繁茂を促します。その成長の勢いは、全く驚くべきものです。電脳法師は子供のころよく庭の草取りをさせられました。とにかく4月ごろになり暖かくなると、一面に「雑草」が生えてきます。そしてほっておくとあっという間に、一面の草ぼうぼうになります。オオバコやジシバリ、他の「雑草」の名前は忘れましたが、とにかく憎たらしいほどの勢いで繁茂します。雑草を採るということは、根こそぎとらないと何の意味もありません。これが面倒でしたが、とにかく雑草たちと格闘したのでした。ですから日本の植物の繁茂力というのは、草取りをさせられたした人や農業の人は皆経験的に体で知っているのです。
以上のように日本の植物の繁茂力は強く、その様相の移ろいは速く、また色も多様で非常に美しいのです。昔からよく妄想するのですが、何かのひょうしにこの日本という国土から人間がいなくなれば、50年くらいで、全くの大森林地帯になるのではないか、と。
そして瞬く間に一年、つまり定期的な周期を終わり、また次の繁茂の周期が始まるのです。
さらに日本という国は実は災害大国です。地震、台風、集中豪雨や大雪、そして火山の噴火などがあります。寺田虎彦は「天災は忘れたころにやってくる」といいました。しょっちゅう何かが起こったりやって来るのです。これらは、しかしほとんど人間に力では対抗できないものでした。先人たちには、ただただ恐れひれ伏すしかないのでした。そこから自然神としての「神」が生まれたものとおもいます。作物神の「さ」の神もあれば、地震や噴火の神があります。
われわれの先人は皆このような経験をしその経験に基づいた感受性や考え方を受け継いできました。
日本人の美も、この日本の風土的なものや自然から学び取った、いや教えられたといってもいいでしょう。電脳法師が別なところで述べたように、人間は周りの環境から知識を与えられる、教えられるという考え方がありますが、われわれの先人たちは、無意識的に環境から教えられ学んできた、ということでしょう。日本人の美意識や思考様式、行動様式などもは自然から学び取ったものであるということは、昔から言われてきました。
電脳法師的に分析してみましょう。日本の自然は、植物や動物、そして人間には非常に暮らしやすい。水が豊かで、やや寒いところからやや暑いところまで南北に長く、海流は豊かで雪も多く、穏やかです。特に植物の多く、その成長の速さは先人には多くの恩恵をもたらした。日本は、江戸時代、エネルギー的には、どこの国とも交易しなくても、山の木のマキや炭で、自立できたのでした。当時の普通の人は、いわば山や周囲の自然にどっぷりつかって生活をしていたといってよいでしょう。
「たたら」製鉄では、鉄を精製するための木炭は一山を丸裸にするくらいの木が必要です。しかしそれは、前述のように30年もすれば、木はまた成長し繁茂するようになります。この「たたら」はまさにこの自然の賜物であると思います。自然環境が、単に原料を供給するばかりではなく、そこから極めて純度の高く良質な鋼(はがね)を、一気に生成するのです。あの三日三晩の一代(ひとよ)での段取りは、工程が一つの形式となっており、それが品質を作り出し保証し、できた製品はまさに美しい日本刀の一品なのです。「ものづくり」の究極の形がここにはあります。技術的側面から見ると、炭と砂鉄の半溶融状態を維持し、不純物と玉鋼を分離するという「超ハイテク」で、現在の純粋結晶シリコンを作り出す製法とよく似ています。自然の恵みと人間の英知の高次元での一体化とでもいうのでしょう。
日本の自然は、とにかく繊細で、細かく微妙で、移り変わりが速く、見るほうもそれなりに感受性や受容能力を高めておかないと、相手の振る舞いは分からなくなってしまう。ですからこの能力は大変高まりました。違いが感じられるのするのは感覚であり、同一性を認識するのは意識であるという。
この違いの、感覚系の文学の代表は、清少納言の「枕草子」でしょう。第一段の部分の、
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。蛍の多く飛び違ひたる、またただ一つ二つなど、ほのかにうち光
りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ二つ三つなど、
飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入り果てて、風
の音虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも。またさらでもいと寒きに、火など
急ぎ熾して、炭もて渡るもいとつきづきし。昼になりて温く緩びもていけば、火桶の火も白き灰がちになり
てわろし。・・・
など、季節の場所や時間における趣の違いが、微に入り細にわたり挙げられ、その比較があり、どれが一番美しいか、面白いか、というものです。
しかし、一方同時に自然のあまりに多様さに先人たちは、途惑ったのだろうと思います。いつもその差異が感じられると、かえって煩雑に感じられることもあるでしょう。自然の、このあまりの多様性、美しさ、移ろいのの速さ、枯れの速さなど、四季のめぐりに対しては、それなりの「防御システム」を持ったに違いありません。ここから、この反対に多様、煩雑ではない方向に憧れる。
日本では、基本的には、ゴージャスよりシンプル、豪華より省略をよしとします。省略の美学です。能では必要な出し物しか置きません。しかも全員出ていて、必要時謡い舞うのである。書割も基本的にはありません。見るほうがあれをあると解釈しながら観るのです。単純化され、結晶化された美学です。日本画もこのような考え方の典型的な例でしょう。
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