・・・そうだ、この「だし味」のように・・・

◆「だし味」

 電脳法師は、いわゆる日本食が大好きである。あの「だし味」「旨味(うまみ)」が好きなのである。

 いつからかというと、たぶん昔出張で西ドイツに行った時に、突然この「だし味」「旨味(うまみ)」に目覚めた時からではないか、と思う。

 子供のときから、何でも食べるほうで、つまり嫌いなものがないというタイプだった。西ドイツでも、初めて食べるものがめずらしく、毎日の食事が楽しみであった。ところが、ある時期から、味に関して漠然と何か物足りない、どういうわけか満たされないという感じになってきた。

 そこで一緒にいった同僚に、たまにはドイツ食ではないところに行こうと、中華料理店にいった。何か干したあわびのスープのようなものが出てきたりして、そのうまかったこと。だがしかし、まだ満たされない気持ちは続いているのだ。これはどうしたことかな、と思いながら過ごしていたのだった。

 そして、あるとき突然イメージがわきあがった―――

・・・・・・あのこってりとしたふくよかでまろやかな香りのよい「砂糖」と「醤油」の味、砂糖でいっそう甘くなり醤油とともにしっかりと背景の味を構成する柔らかい「たまねぎ」、そのたまねぎと衣にやさしくより添う黄色く白いいわずと知れた食材の女王「卵」、だし汁に染まり程よいクッションで主役をのせて下から支えるあの通奏低音的な味を構成する「ご飯」、ご飯ものに最適化されかつしっかりと手になじむ形状の伝統的食器の「どんぶり」、そしてそれにピッタリと合いどんぶりの中の温度と風味を閉じこんで守るパートナーの「蓋(ふた)」、そして砂糖と醤油のだし味の衣を身にまとったこの料理の主役でありドイツでは肉の王様である豚の「カツ」・・・・・・

 ―――が、実にリアルに、まったく突然に思いだされた。そう、これはあのいわずと知れた丼物の王である「カツ丼」の”幻影”である。曰く、「何故に我を忘れしや!」。あの聖パウロの”回心”もかくやと思うほどの、電脳法師の目覚めであった。そして敢然と決心したのである。

 「帰国したら、絶対、いの一番にカツ丼を食うぞ」

 そして帰国するや否や、行き付けのトンカツ屋で、ためらい無く「カツ丼」を注文した。普段は「カツ定食」+「赤だし」なのに、この時ばかりは「カツ丼」ではなくてはならないのだ。そしてあのひらめいた幻影の通り、そのカツ丼のうまさは、電脳法師をして、改めて日本人であることを自覚させ至福に至らしめるには十分であった。

 まるで、よくテレビや映画で見る、薬物中毒患者が目的のものを得て、心身ともに落ち着くあの場面のようだ。こんなにうまいカツ丼はかつて食べたことが無かった。その後しばらくは、外食では「カツ丼」が続いたのである。

 そしてそのうちにカツ丼のせいで(?)気分が落ち着き、やっと思考力が通常の状態となった。と同時に、いったい今回のこの”現象”は何なんだったのだ、と大いなる疑問を持つと同時に、持ち前の”技術屋魂”で、これは必ず現象の解析と原因の追究をし、理論化しなければならない、と決心したのだった。

 結局、いろいろ本などで調べたり、自分自身の”体”に聞いたりしてわかったのは、ドイツでの”現象”は「だし味」「旨味」(つまりある種のアミノ酸)の”欠乏症”だったということだ。確かにドイツ料理は肉料理が多く、最初はあこがれであった。たとえば日本のトンカツによく似た「シュヴァイネシュニツェルSchweineschnitzel(豚カツレツ)」がある。ドイツ人と同じように、添え物のレモンをかけて、さくさく食うのである。
 しかしながら、そのうちに物足りなく感じるようになった。何かが足りないのだ。そして日本でのカツ定食の食べ方を思い出して、ウスターソースのようなものをもらい、早速かけて食べたら相当いけるようになった。そうしたらレストランの女主人がすっかり驚いて「日本人は不思議な食べ方をする!」と言ったのだった。

 後から考えれば、この段階でじつは、既にある予兆があったのだ。つまり「だし味」からだいぶ遠ざかっていたので、「だし味」や「旨味」つまり「アミノ酸」が欠乏状態であることに、体とそして精神(つまり脳)が悲鳴を上げていたのだった。

 電脳法師にとっての日本食の”原風景”は「カツ丼」だったのだ。この中に日本食、つまり「だし味」の本質がある。

 ◆ 

 われわれ日本人は、何を食べるにしても「だし味」がついてまわる。普通の食生活では、昆布やカツオ、にぼしなどのいわゆる「だし」そのものから、味噌・醤油などの調味料、それを使った「みそ汁」、そして単なる塩漬けから糠床などを使う「漬け物」、魚介類を「酢でしめた物(しめ鯖など)」や「押し寿司」、魚や貝・植物・きのこ等の「干物」、「緑茶」、「日本酒」、さらには「なれ寿司(琵琶湖の元祖鮒寿司ほか)」など、要するに化学的にはある種の「アミノ酸」のオンパレ−ドである。そして人工的な化学調味料ならばグルタミン酸ナトリウム、イノシン酸などがある。これらを日本人は、無意識に日々相当量をとっている。
 だから長期間これらのアミノ酸を摂取できないと”禁断症状”が起きると推測されるのだ。

 醤油や味噌は日本が作り出した最高の調味料であり食材の一つである。温帯モンスーンの日本の気候風土が、これらの味や食材を生み出したのである。温暖で湿度が高く海や山の産物がとにかく豊富なので、いろいろな偶然が重なり酵母菌や乳酸菌、そしていろいろな発酵菌が発見され、さらに応用が進みこのような「だし味」王国となったのだと思う。日本は世界に冠たる発酵文化王国なのだ。

 電脳法師はこの時以来、すっかり日本の味、つまり「だし味」や「旨味」に強くひかれ始めた。そう思ってみると、味噌や醤油のごく普通の調味料の大事なことがよく理解できる。納豆に醤油が無いと非常に食べづらいが、少し醤油を落とすだけで、まったく違った味や風味になる。電脳法師は、自分でも家やアウトドアのキャンプで結構料理をしてきたので、これ以後、料理をするときは、一段とだし味や味噌・醤油の使い方に関心を持ち、食材や料理法などに力を入れるようになった。

 みそ汁を作るとき、そのだしのとりかたや味噌の入れ方にはいろいろあるようであるが、基本を外すと味噌汁にならなくなる。味噌味を引き立てるためのベースのだし味には、たとえば、鰹節などを使う。このだし味が無いと味噌汁を作っても味噌の味がまったく引き立たたない。つまりまずい味噌汁となってしまうのである。また味噌をどのように入れるかも大きなポイントとなってくる。

 電脳法師の作り方は、次のようである。しっかりと鰹節などでだしをとり、最高によい状態で具に火が通ってから火を落とし、少し温度が下がるのを待ってから、味噌をゆっくりと「おたま」の中でとく。味噌には沸騰は厳禁である。少しずつお玉の中でとき、少しづつなべに入れ、決して味噌のかたまりをそのまま入れてはいけない。この時初めて、味噌のあの香りが出だしてくる。そして全部味噌をといた後に、みじん切りにしたねぎを二つかみぐらい入れる。このねぎという日本の“ハーブ”は、ものすごく味噌を引き立てる。最後に入れるのがポイントだ。簡単だがこれらを外すとまず間違いなくまずくなる。

 そして何回となく味噌汁を作っては味わっているうちに、ある考えがひらめいたのだ。

 味噌汁の本質は「味噌」そのものを味わうことではないか。

 つまり、あのなんとも品のよいふくよかな香りと風味、気持ちを落ち着ける味、無意識に心身を落ち着けさせるなんらかの作用、必然的にこれらのことが得たくて味噌汁を作るのではないか。極端に言えば「具」は単なる味噌の添え物であって、あくまで主役は味噌なのだ。味噌つまり「だし味」「旨味」そのものを味わいたいのだ。だから、主食であるご飯は淡白な味であるべきなのであって、さらに味噌を引き立てるねぎ等の香草やハーブは必須なのではないか。

 一番単純な味噌の料理は、「ねぎ味噌」であろう。鰹節を入れるとさらにうまい。多分味噌と鰹節とのだしの相乗効果と、対応するねぎの香味が何ともいえずよい味とかおりを引き出すのだ。簡単、早い、旨い、でつまみに最高である。これも実は、味噌を味わっているとしか思えない。日本人には特に説明も要らないことなのだが、しかしなぜこんなにうまいのか、まだ電脳法師にもよくわからない。

 またにんじんやセロリ、きゅうりなどの野菜を洗って切っただけの「野菜スティック」などもよく作るが、味噌が”キーパーソン”である。味噌とマヨネーズを3:2くらい混ぜて、それに野菜をつけて食べると、野菜の味がとにかく引き立ちます。にんじんの生は、ストレートで食べるとかなり青臭い感じであるが、この味噌マヨネーズを少しつければ、本当に甘く旨いのがよく味わえる。にんじんのストレートとはこんなにうまかったのか!にんじんの嫌いな子供も、これで間違いなくにんじんが食べられるのだ。しかしこれも味噌があればこそのものであり、やはり味噌を味わっているとしか思えないのである。

 ちなみに味噌には他にこんな応用もある。真夏の山奥のテントでどうしても肉を食べたいとき、この味噌が役に立つ。真夏なので肉はすぐに悪くなるが、味噌を使えば大丈夫。ふた付容器に、味噌を入れその上に肉を敷き、またその上に味噌をいれまた肉を敷き・・・とこれを繰り返す。必要な量だけ容器に入れふたをするだけで真夏の携行に耐えるのである。食べるときは、たいてい「芋なべ」的となるが、肉に味噌味がしみ込み大変旨い。また余った味噌でほかの味噌料理に使ったりして役に立つ。

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 同じように醤油もただものではない。納豆にしても、大豆が発酵してすでに旨味が出ているのだが、これだけでは不十分で、ここに醤油のあの風味と香りがつけば、抜群に旨いのだ。もちろん引き立て役の香草、つまりねぎがあれば鬼に金棒、あの納豆の”フルコース”の出来上がりとなる。

 野菜炒めの場合は、塩と胡椒で基本的な仕上げをする。もやしなどの食材を決して炒め過ぎないようにし、そして火を止める直前に、醤油をわずかに加える。このだけで野菜炒めの風味が格段に増す。

 電脳法師御用達の、安くて簡単で、抜群にうまい「醤油料理」を紹介しよう。これは電脳法師が酒を味わい始めてから、つまみとしてもう何十年も味わっているものだ。とにかく安く、うまく、しかも簡単で10分もあればできてしまう。
 まず、ねぎを普通に細かく輪切りにしたものを片手いっぱいぐらい用意する。次にややよく作られた(手揚げなどの)油揚げを一枚裏表こんがりと焼きにかかる。焦がさないように注意する。油揚げを焼いている間に、皿の上に先ほどのねぎを小皿にまんべんなく敷き詰める。主客の「油揚げ」様のソファーになるわけなので、品よく並べなくてはならない。
 油揚げが焼きあがったら、それを短冊状に10数個に切る。それを先ほどのねぎの皿に平たく並べる。
 そして仕上げが醤油である。すこし大目に、一気にかけるのだ。まだ熱いうちにかけることによって醤油のあの風味がいっそう増幅される。そしてあの親しみある醤油味を味わうのである。下から油揚げを牽制しつつ醤油を引き立てるのは、あのねぎの役割なのだ。

 これで抜群に杯が進むこと疑いなし。もちろん日本酒(新潟酒的ではなくやや重めでしっかりとした味が好みだ)がベストであるが、普通の赤ワインでも十分あう。ということはご飯のおかずにも抜群に相性がよい。冷蔵庫にこれらがあればもう何もいらないくらいだ。さらに、実はこの「油揚げねぎ醤油」はパスタに添えても抜群に旨い。電脳法師は、特に一番シンプルな風味でベイシックな味の、ペペロンチーノに添えた食べ方が大好物である。

 香草あるいはハーブとしてのねぎは、先ほどの味噌汁や油揚げ料理でも述べたように、電脳法師の経験では、味噌や醤油の引き立て役である。また卵がある場合、単純に目玉焼きもよいが、卵をといてさらにねぎのみじん切りをいれよく混ぜて、普通に焼く。そう、そしてまた少し醤油を使う。これで抜群にうまい玉子焼きが出来上がる。一度試されてはいかがかな。

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 以上の若い頃のドイツでの経験を動機として着手した“調査・研究”の中間的な結果として、電脳法師は次のことがいえると思う。

 日本食は「だし味」そのものを味わうべき料理である。そして食材や調理方法や食べ方など、すべて「だし味」を味わうために特化してきた。

 米食(ご飯)も基本的にはこの枠組みで考えられる。つまり「だし味」を引き立てるための基本食材としては、必然的に質のよい淡白な味とならざるをえない。味が濃いとあの微妙な「だし味」が隠されてしまう。米はカロリーも有り、消化がよく、そして何より、味が淡白で上質で、何にでもとも合う。ご飯は「主食」というが、それは表向きの話で、本当の”主役”あるいは”黒幕”は「だし味」なのである。ほかの食材も単なる「だし味」の引き立て役にすぎない。

 味噌汁にしても、主役は味噌であり、味噌の味つまりだし味が味わいたくて、味噌汁を作っているのであり、レシピ的には、まさにそうなっている。納豆にしても、油揚げねぎ醤油にしても、主役は醤油である。

 宮澤賢治も「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と述べている。

 日本全体では、第一次産業(農業、水産業)は当然のことながら、第二次産業(製造業、加工業)そして第三次産業(PR情報活動、研究開発(R&D))においても、このだし味を味わうべく日夜創造・生産活動しているのである。そのエネルギーは凄まじいものだ。日本文化の基層をなすものの一つが、これらの「だし味」「旨味」であるといっても過言ではない。従いもし”ジャンクフード”などで、だし味や旨味の文化が滅び去ると、日本文化が崩壊するかもしれないのである。

・・・これは“仮説”であるが、今後さらに事例を積み上げ理論的に”証明”しよう・・・
と味噌汁を作りつつ、妄想にとらわれている技術屋の電脳法師であった。

2005.3.2 電脳法師  


・・・そして、この「だし味」のように・・・