第一則 趙州無字

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僧が問うた。犬にも仏の性がありますかと。 和尚が答えた。「無」と。


無門和尚の解説:禅を研究するには、師の設けた関門を通らねばならない。 真の悟りを得るには心を極め、心を越えねばならない。 悟りを得れば山野草木の全ての精神を理解することができる。

さあ、考えてみよ、師の関門とは何か。これを名づけて禅宗無門関と言う。 これを通るものはこの第一則を提起した和尚のみでなく、歴代の師と手を取り合い、 同じ目を通して物事を見ることが出来、同じ耳で聞くことが出来るだろう。 素晴らしいことではないか。さあ、この関門を通ろうではないか。

これは一言で言えば、無とは何かを真剣に考えてみよ、ということでしょう。 無というものを真剣に考えることによって物事の本質、自分の心の本質を見、 古来の禅の和尚達の境地に達すると言っています。

無を素直に「何もない状態」だとしたら、「何もない」とはどういうことでしょう。 常識的に考えて想像しやすいのは真空、宇宙空間の空気も星間物質もない部分でしょう。 しかしまだ空間そのものがあります。

ではこの世の外はどうでしょう。ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりがあったとして、 宇宙が一点から爆発的に膨張したとして、その外側には何があったのでしょう?  宇宙空間自体は閉じていて、外側はなかった、というなら、ビッグバンの始まる前は?  



禅が最も嫌うのは安直な理解ではなく、資料を積み重ねた机上研究でもなく、 人間の心の乱れ、悩み、不安心でしょう。その解決策は、単純に心を無にし、 全てをあるがままに受け入れ、自分の心の自由な動きに従っていればよい、ということではないでしょう。 何が起きようと乱されない確固たる安心、それこそが禅が求めるものなのでしょう。

その第一則が 「無とは何かを考えよ」 という命題でしょう 。自分が生まれる前、自分が死んだ後、それを時間と空間の大きな「無」として考えてみよ、ということでしょう。

この則は、短くてかつ壮大な無門関全四十八則の序曲なのでしょう。 無、ない、ということはこのテキストを貫く通奏低音となり、繰り返し現れます。 あるときは無という状態を示し、ない、という否定にも使われ、有と無の二元論を否定した大きな姿、 そして全てを包み込む、虚無ではない大いなるものとして様々に表現されます。 無とは何か、仏性とは何か、という問いは、この世とは何か、自分とは何かという問いなのでしょう。

無門和尚はまだここでは答を出せとは言っていません。和尚は無門関全則でそれを追求し、 最終第四十八則でその答を示している、と私は思います。 それでは、以下子狐として、無門和尚のテキストを順を追って読んで行きましょう。


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犬の足跡: 以上は真面目な話ですが、蛇足(犬足?)として、雑談を追加します^−^
出てくる写真は、一部引用の記載のあるもの以外はほとんどが私が撮影したものです。

何人かの方々からご質問を受けました。「何故犬が出てくるのですか?」「4匹もいて喧嘩しませんか?」 4匹は同時にいたのではなく、我が家と妹の家で飼っていたワン達の古い写真です。

犬が出てくるのは、第一則が「犬にも仏性があるか」というのと、写真が沢山あったので。 ミニダックスは人の言葉をほとんど理解し、命令にはちゃんと従うくせにいたずらっ子で、芸を仕込まれることは嫌いのようですが、頭がよく、何でも判ったような顔をしてるのが、このテキストの案内には適役と思いました。各ページの最初に出てきますので、よろしくお願いします!