母の思い

目次

[1 もう一度やり直そう]

平成10年7月8日付け朝日新聞大阪本社版に掲載されました。

[2 娘が運んでくれたもの]

平成11年10月23日刊行の頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会の本「生きててもええやん」に手記が掲載されました。

[3 障害児にあたりまえの教育を]

平成11年10月30日付け朝日新聞大阪本社版に掲載されました。
(紙上のタイトルは「発達に合った教育受けたい」です。)

[4 県障害者施策長期構想(案)への意見]

県が計画している障害者施策長期構想(案)について、インターネット上で意見募集があり、提出したものです。

[5 共に生きよう]

平成14年2月26日付け朝日新聞大阪本社版に掲載されました。

[6 友達と共に輝いた卒業式]

全日本手をつなぐ育成会情報誌「手をつなぐ」平成18年6月号に掲載されました。

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1 もう一度やり直そう

今年2月11日、4回目の誕生日の前夜、一人娘の彩花は突然けいれんを起こした。インフルエンザ脳症、それに続く後遺症との闘いが始まった。

1か月後、もとの元気な彩花には戻らないと告げられた。生まれたばかりの赤ちゃんみたいになってしまった姿を前に、こうして生きているのが本当に幸せなのかしらと思った時もあった。

どうしてこんな事になったのかと繰り返し思い、こんなことも、あんなこともさせてあげたかったのにと、何を見ても何を聞いても悲しく、切なかった。

元気なころの彩花は、私の周りや私の中のいたるところにあふれている。ささいな出来事や愛らしいしぐさ、茶目っ気たっぷりの言動・・・・。思い出すと涙があふれてきて、止まらなくなる。彩花より小さな子を見ればそんな昔の彩花を思い出し、大きい子を見れば「もうあんな将来はない」と悲しくなった。今も彩花の思い出の品やアルバムには触れられないでいる。

あれから4カ月半、退院というひとつの節目を迎えた。自分では動けなっかた彩花が、訓練を続け、自分で座れるようになり、はうことを覚え始めた。どこまで回復するか分からず、時間はかかるだろうけれど、生まれ変わった彩花ともう一度やり直そうと思う。4年間に彩花がくれたたくさんの喜びと、そしていま彩花が生きていてくれることに感謝している。

彩花が生まれてきてくれた時にも世界が広がったように思ったが、いままた新しい世界が開けていきそうな予感がしている。

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2 娘が運んでくれたもの

2月12日、それは娘の誕生日でもあり、娘が生まれ変わった日でもあります。

4歳の誕生日を迎えるまでは、幼稚園に通う元気いっぱいの女の子でした。

おしゃべりで、ちょっと引っ込み思案なところもあり、ちゃめっ気はたっぷりで、お友達には優しく、長い髪がご自慢で、信頼を寄せて「ママ」と呼んでくれる、ほんとうに愛らしい、大切な大切なひとり娘でした。

その成長ぶりは私を楽しませ、喜ばせてきました。

そんな娘が、平成10(1998)年の4回目の誕生日の前夜、突然けいれんを起こしました。

病名はインフルエンザ脳症。

一時は生命の危険にさらされ、娘がいなくなってしまうことを想像して、その恐ろしさにおびえ震えました。

命だけは助かって欲しいと必死で懇願しました。

そして、なんとか命はとりとめることができたのです。

だんだんと目を開けられるようになってはきましたが、見えているのかどうかはわからず、呼び掛けに反応するようなこともありませんでした。

また、体に触られることをいやがるようになるとともに、暴れ出したのです。

暴れ方は徐々に激しさを増していき、ベッドから飛び出さんばかりで、その爆発的な力は、普通では考えられないようなものでした。

ベッドの柵はすべて毛布で覆われ、抑制されたこともありましたが、それでも打ったり擦ったりの傷がいっぱいできました。

ほんと何かにとりつかれたようで、変わりはてた姿を前に、かわいそうでかわいそうで見ていられませんでした。

そんな中、ちょうど発病から1カ月たったころ、MRI(脳の精密断層撮影)検査の結果を聞かされたのです。

「もとの娘には戻らない。あまり回復を期待することはできない」ということでした。

それまでは、あの娘に戻ってくれることを一心に祈り信じ続けていただけに、その時のショックは言葉にすることができないくらい大きいものでした。

その後、大暴れがようやくましになってきたのは、発病から1カ月半ほどたったころです。

訓練が始まりましたが、最初は首も座っておらず、生まれたばかりの赤ちゃんみたいな姿となってしまっていました。

どうしてこんなことになってしまったのかと心の中で繰り返し、こんなこともあんなこともさせてあげたかったのに、と悔やまれました。

この心地よい風を感じることも、このきれいな景色を楽しむことも、大好きだったあの歌を歌うことも、もうできないのかと思うと、何を見ても何を聞いても悲しさがこみあげてきました。

小さな子を見ては、そのころの娘を思い出し、大きな子を見てはあんな将来はないんだと切なくなりました。

元気なころの娘は私のまわりや私の中のいたるところにあふれていて、それらは私を苦しめ、かぎられた可能性の中でしか生きられないと思うことは、私を絶望に追いやりました。

奈落の底につき落とされた、真っ暗な出口のないトンネルの中に追いやられた、そう思う日々が続きました。

しかし、徐々にではありますが、回復し始めたのです。

それは赤ちゃんからの発達をもう一度繰り返すようでした。

首が座り、寝返りができ、不安定ながらおすわりもできるようになりました。

本格的な訓練のため、5月中旬に転院してからは、どこまで回復するかはわからないけれど、よくなっていく可能性はあると言ってもらいました。

訓練のかいあって、おすわりが安定し、よつばいをし始めるようになりました。

4カ月半の入院生活を終えて、6月末、ようやく退院の日を迎えました。

退院後も訓練を続け、7月13日にはついに歩くことができました。

それは私に、二度目の歩くことの喜びを与えてくれた日となったのです。

発病から1年半がたちました。

歩行はまだ不安定ではありますが、運動面は本当によく回復してくれました。

食事も離乳食のドロドロから始め、今ではなんとか普通のものがとれるようになりました。

しかし、自分で食べることはできず、食事も着替えもすべてお世話がいり、おむつをしています。

知的な面の回復は遅々としていて、まだまだ赤ちゃんのようです。

言葉は理解できないし、話すこともできません。

遊びはおもちゃを口にもっていったり、目で見たり手で触ったりする程度で、それを使うということはできません。

人とのやりとりを楽しむとか、まねをしてみるとかいうこともまだ難しいようです。

感情の表現が乏しく、痛みなどに対する感覚も鈍いためか、泣くことはありません。

重度の知的障害をもっています。

一瞬しか見ることができなかったのが、じっと見れるようになったこと、多動が少しは落ち着いてきたこと、食べ物の好みがはっきりしてきたこと、抱かれることをいやがらなくなったこと、少しは人を意識するようになったこと、表情が豊かになったこと。

大きくはないですが、ゆっくりではありますが、うれしい変化もあります。

また、後遺症としてのてんかんの発作は平成10年6月の退院直前に判明し、以降連日発作に悩まされ続けていました。

平成11年3月から4月にかけての3週間の入院により、薬の調整がうまくいき、なんとか今は発作を抑えることができています。

私は、奈落の底からも、真っ暗なトンネルからも知らない間に抜け出してきました。

娘が導いてくれたんだと思います。

そして、娘は私にいろいろなことを教えてくれたのです。

娘の回復は、私を励ましてくれます。

あたりまえでもなく時間のかかる変化は、そのひとつひとつをゆっくり確かめながら、精いっぱい喜ぶことができます。

その笑顔は、大切で貴重で、とても幸せな気持ちににさせてくれます。

娘はちがう娘になってしまいましたが、子どもを育てるということ、その子とともに育っていくということに、そんなに変わりはないと思えるようになりました。

そして、娘が生きていてくれること、今ここにいてくれること、そのことへの感謝とともに、その重さと喜びを実感できます。

抱きしめること、それは私に安らぎを与え、私を癒します。

なにか子育ての原点に戻れたような気がするのです。

娘は、今まで出会うことができなかった人達に引き合わせてくれました。

いろいろな病気や障害をもつ人達との出会いは、娘が障害児となってしまったことによる私の苦痛を癒し、また障害児である娘とともに生きることの意味を深めてくれるものだと思います。

出会いのひとつひとつを大切にしたいと思うようになりました。

娘が発病する前の4年間は、私にとって美しく輝かしい宝物のようなものになりました。

その宝物は時に私を励まし、時に私に深い悲しみをもたらします。

私は、自分の悲しみと向き合ったおかげで、苦悩をもった人達に目を向けることができるようになり、人の苦悩に敏感になることができたように思います。

人と分かち合っていくために、自分の苦悩とも付き合い、持ち合わせていきたいと思っています。

以前は、娘が元気に生まれてきたことも、日を追う毎に成長していくことも、なにもかもがあたりまえでした。

しかし私は今、障害児を最も身近に知り考えることができる立場になりました。

できることなら私自身が、知る気付く考えるきっかけになることができればと思います。

障害児を、障害児と生きるということを、まわりの人達に少しでも身近に感じ考えてもらうことができればと思っています。

障害児とともに生きていくことは、将来をより予想し難いものにするかもしれません。

道のりが見えないことに不安はあるけれど、退屈はしないかも、なにか見つけられるかも、なにかできるかも、そんな期待を抱かせてくれます。

どんな命にもみんな意味や価値がある、生には終わりがありそれはいつ訪れるかわからない、人はみんな何かを抱えながら生きている、どんな体験であろうとそれを糧にできる人の力や人の強さは信じるに値する、喜び・怒り・哀しみ・楽しみいろんなことがあった方が人生は豊かになり人らしく生きていける、そんなあたりまえのことに気付くために、生きていくのかもしれないと思うようになりました。

絶望的でも悲劇的でもない人生と思えるようになったのは、以前の娘と生きていくだけでは出会えなかった、気が付かなかったことを今の娘は運んできてくれ、またこれからも運び続けてくれるということを知ったからだと思います。

娘は人のためにとは思うことなくまわりの私達のために、純真に生きていてくれる存在なのかもしれないと思っています。

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3 障害児にあたりまえの教育を

重度の知的障害のある娘が来春、小学校入学の年になります。

障害児の親にとって、今の時期は就学先を決めるという苦渋の選択を強いられる時期なのです。

現在の教育体制は、障害の有無、程度によって普通学級、障害児学級、そして養護学校に振り分け、発達段階に応じた教育を行うことになっています。

娘が発達段階に応じた教育を受けようとすると養護学校へ、ということになるのです。

しかし、障害児が遠く離れた養護学校へ通うことになると、地域の子供たちとかかわる機会が大きく制限されてしまいます。

就学が障害者を社会から締め出す出発点になっているのです。

身近に障害者と触れ合い、障害へのマイナスイメージの解消や障害者について考える機会を奪ってしまっていると思うのです。

実際には、共に在り、共に生き、共に育ちたいとの一心から、普通学校に通っている重度障害児もいます。

障害児は、自分に見合った教育を受けるのか、みんなと一緒にいるのか、どちらかを選択せざるを得ない状況にあります。

障害のない子もある子も、地域の中でみんな一緒にその子の発達に合った教育が受けられることを、それが当たり前で普通になることを、切に望んでいます。

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障害者施策長期構想(案)への意見

 知的障害と肢体不自由をもつ娘の親です。

 娘は、教育委員会からは養護学校に就学するよう指導を受けたのですが、地域の小学校の特殊学級に在籍している1年生です。

 地域の小学校を選択したのは、共に学ぶことが、娘にとっても、周りの子供たちにとっても、自然な形だという思いからです。

 さて、県障害者施策長期構想(案)を読みましたが、物足りないものを感じました。

 障害者が共に暮らすことのできる社会を実現していくにあたっては、教育の果たす役割が大変重要だと考えます。

 この案の中で、もっと語られなければならないのは、障害児教育の統合化だと思います。

 障害のない子もある子も、共に学ぶ必要があるのです。

 学校生活の中で、障害をもつ子供たちとふれあう、日常的な機会が是非とも必要です。

 しかしながら現在の教育制度は、その機会を奪ってしまっています。

 障害の種類や程度によって、盲・聾・養護学校にふりわける制度が、障害をもつ子供たちを分離し、区別し、違う人達という意識を植え付けています。

 そういう意識をわざわざ植え付けておいて、差別解消のための啓発をするということには、疑問があります。

 12年間の学校生活を終えた時点で、共に生きようといわれたところで、果たしてそれが現実のものとなるのでしょうか。

 福祉・まちづくり・労働環境など、障害者のノーマライゼーションを目指した施策は、前進してきつつあると思いますが、教育についてはそれがいっこうに進んでいません。

 今の普通学校の中に障害児を取り込んでいくことが、ノーマライゼーション実現のための近道だと考えます。

 障害者福祉を先駆的にすすめてきた県としては、障害児教育の改革についても、先駆的に、積極的に、是非とも取り組んでいただきたいと思います。

 障害をもつ子と親の、地域の普通学校に通いたいという希望は、叶えられなければなりません。

 障害児の統合教育は、時代の流れでもあるので、今後そういう希望をもつ子供たちは、増えていくと思います。

 また実際、子供たちの障害の状態は多様化しています。

 普通学校の障害をもつ子供たちへの対応を強化することこそ求められているのです。

 先ごろ、文部科学省の調査研究協力者会議が、21世紀の特殊教育の在り方についての報告をまとめました。

 その中には、次のようなことが記されています。

 ひとつは、盲・聾・養護学校が、地域の特殊教育のセンターとしての役割を果たすべきだということです。

 指導事例や教材その他関係情報の提供、共同での授業研究などによる、普通学校への支援です。

 もうひとつは、普通学校の特殊教育担当教員の資質の向上の必要があるということです。

 養護学校の授業への参加や研修機会の充実、特殊教育教諭免許の取得の促進です。

 さらに、盲・聾・養護学校と普通学校の人事の交流が必要だということです。

 このような普通学校への支援を、案の中で、是非とも明文化していただきたいと思います。

 教育に、「もっと身近に」との重点方針を採り入れられますようお願いします。

 そして将来的には、障害の種類や程度にかかわりなく、障害のある子もない子もすべての子供たちが、その地域の普通学校へ安心して通えるようにしてください。

 その日が来ることを待ち望んでいます。

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5 共に生きよう

 4回目の誕生日を迎えるまで、娘の彩花は障害をもたずに生きてきた。

 誕生日の前夜、インフルエンザ脳症を発症し、命がけの闘病のあと、後遺症とともに生きることとなった。

 あれから4年、彩花は今月12日に8才の誕生日を迎えた。

 小学校の障害児学級に通う2年生のいま、軽度の運動障害と、とても重い知的障害がある。

 4年の間には、悲嘆に明け暮れ、暗やみの中をさまようような日々もあった。

 これから続く介護の負担はやはり重い。

 一方で、身近にたくさんある幸せに気づいた。

 次女も生まれた。

 家族4人でテーブルを囲めること。

 家族が並んで眠れること。

 一つひとつの当たり前のことに喜びを感じ、感謝するようになった。

 彩花の存在そのものが、私にはかけがえなく思える。

 それまで見えなかったこと、見ようともしなかったことに、彩花は心を開けさせてくれた。

 少しずつではあるが、彩花に変化がみられる。

 彩花と向かい合い生きることで、私も救われている。

 障害があっても、人はそれぞれ、価値や役割を持って生きている。

 大切な何かに気づかせてくれる存在だということを、周りの人や社会もわかってほしい。

 同じ地域の中で暮らし、生きざまに触れることができる距離にいる必要があるだろう。

 共に生きる社会の仕組みが必要だと思う。

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友達と共に輝いた卒業式

娘は、友達に手を引かれ、身体を揺らしながら懸命に歩いて入場してきた。

席に着いている間は、静かに座っていられるよう近くの友達が気づかってくれた。

卒業証書は、支えられて一歩一歩踏みしめるように壇上に上がり、手をそえられて受けとることができた。

3人の友達に助けられての、ゆっくりと時間のかかった娘の授与を、集う人達みなさんに見守っていただいた。

よびかけで前に並んだ時には、動きだそうとする娘を、その場に立っていられるよう両隣の友達が引き戻してくれた。

よびかけの終盤、娘は言葉で表現するかわりに、ボタンを押し明かりを灯した。

それは巣立ちの歌が始まる合図だった。

そして、友達に手を引かれて、拍手の中を退場していった。

この3月、重い障害をもつ娘は、みんなの中のひとりとして輝きながら、小学校を卒業することができた。

そこには、先生方の配慮と、集う人達の温かいまなざしがあった。

友達と娘の、支え支えられる関係へと共に成長した姿があった。

地域の小学校で6年間を過ごしてよかったと思える素晴らしい瞬間だった。

温かく優しさに満ちた、感動が心に深く染み入る卒業式だった。

ひとりでできることはほんの少ししかないけれど、娘は、こうしてこれからも、周りの人達へ何かを届け続けていく存在なんだと思っている。

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