父の思い

目次

[1 インフルエンザ脳炎・脳症の治療法の確立を]

 平成11年2月5日付け朝日新聞大阪本社版、7日付け東京本社版に掲載されました。

[2 インフルエンザ脳症そして後遺症としてのてんかん]

 日本てんかん協会発行の「波」1999年7月号に掲載されました。

[3 ボランティアに参加して]

 平成11年の夏休みに、障害児サマーホリデーサービス事業にボランティアとして参加して、感じたことをまとめました。

[4 小学校入学に当たってのお願い]

 平成12年4月10日、小学校の入学式の後、1年1組の教室でお友だちと親御さんに対して、彩花のことについて、お願いしました。
 お友だちは最後まで静かに聞いてくれました。

[5 「インフルエンザ脳症による後遺症を持つ娘と家族のページ」からの情報発信]

 日本てんかん協会発行の「波」2001年3月号に掲載されました。

[6 妹ができた]

 インフルエンザ・脳症 親の会「小さないのち」発行の会報2001年冬号に掲載されました。

[7 学校教育法施行令の一部を改正する政令案に対する意見]

 平成13年12月26日に文部科学省が行った学校教育法施行令の一部を改正する政令案について(意見募集)」に対して、意見を提出しました。

[8 彩花の就学]

 インフルエンザ・脳症 親の会「小さないのち」発行の会報「こころの扉」第44号に掲載されました。

[9 お父さんの子育て]

 平成14年9月15日に開催された障害児の生活教育を充実させる県民の会主催の子育て懇談会でシンポジストとして発言した内容です。

[10 市福祉計画案に対する意見]

 平成16年1月15日に市が行った意見募集(パブリックコメント)に対して、意見を提出しました。

[11 和倉いでゆ太鼓保存会の演奏会あいさつ]

 平成16年5月16日、彩花のために和倉いでゆ太鼓保存会のみなさんがお越しくださいました。

[HOME]


1 インフルエンザ脳炎・脳症の治療法の確立を

昨冬、私の娘はインフルエンザから脳症となり、一命はとりとめたものの、脳へのダメージは大きく、重い障害を負ってしまいました。言葉を、記憶を、感情を失い、日々てんかんの発作に悩まされています。

今年もインフルエンザで亡くなられた方がおいでになるとの報道に、他人ごととは思えず、胸をしめつけられる思いです。これ以上悲嘆にくれる家族が増えないことを、願わずにはいられません。

それにしても、「インフルエンザ死者何人」という報道では、その実態が見えてきません。どんな状態で発症したのか、どんな経過をたどったのか、親はどの様なことに注意しなければならないのかといった報道こそなされるべきだと思います。

厚生省がインフルエンザ脳炎・脳症の調査に乗り出すということですが、発生率や死亡率だけの調査にとどまることなく、後遺症についてもその頻度や程度について明らかにしてほしいと思います。そして、脳炎・脳症の予防方法、早期の診断方法、救命と後遺症を残さない治療方法の確立に全力を挙げて取り組んでいただきたいと思います。

[HOME] [目次]


2 インフルエンザ脳症そして後遺症としてのてんかん

 平成10年2月11日、4回目の誕生日の前夜、ひとり娘の彩花が突然けいれんを起こした。病名は、インフルエンザ脳症、脳がはれて、一時は生命の危険にさらされたものの、なんとか一命はとりとめることができた。

 ちょうど発病から1カ月経ったころ、MRI検査の結果、もとの元気な彩花には戻らない、あまり回復を期待することはできないと告げられた。元気な姿に回復することを期待していただけに、あまりのショックの大きさに言葉を失ってしまった。

 発病から4カ月半、退院直前に後遺症としてのてんかんが判明した。脳波検査、症状などから、「全般性全身性強直発作」と診断され、以降連日発作に悩まされ続けることになった。1回の発作の時間は数秒から数十秒と短いものの、日に何度も発作が襲った。デパケンに始まり、エクセグラン、ランドセンと量が増え、種類が増えていった。

 しかし、発作を抑えることはできなかった。そして、頻繁な発作から、倒れることもしばしばだった。首をかくっとさせたかと思うとそのままの姿勢で、顔から崩れ落ち、歯を脱臼したり、目のほんの少し横を打撲したりと、何度もひやっとさせられた。顔から倒れこむと頭部保護帽も役には立たず、意識を失い、避けることもできない彩花が、不憫でしかたがなかった。

 平成11年3月、発作のコントロールのため、再度の入院。精神安定剤のひとつセパゾンが効き、なんとか発作を抑えることができた。今は、ハイセレニン、ランドセン、そしてセパゾンと3剤でコントロールができている。

 発病から1年以上が経った。自分では動けなっかた彩花が、座れるようになり、はうことを覚え、ついに歩くことができるまでになった。歩行は未だ不安定だが、運動面は本当によく回復してくれた。食事は、ほぼ大人と同じものをとれるようになったが、水分の摂取がままならず、今でも経管栄養のチューブを留置していて、水分と抗てんかん薬の注入をしている。また、知的な面の回復は遅々としていて、未だ乳児のレベルだ。

 そんな彩花に、療育、訓練に加え、さらに良い刺激をと、保育園に入園させることを決心した。元気なお友達の声や雰囲気が、彩花を楽しませてくれるかもしれない、また、お友達や親御さんに障害児のことを理解してもらおうという気持ちもあった。福祉事務所と何度もわたりあい、ようやく、平成11年4月3日、保育園の入園式を迎えることができた。こんな場面がこようとは、発病当初の姿からは想像もできなかった。車椅子に座っているために、お友達の中でひときわ目立つ彩花がそこにいた。「入園できたのだ。」目頭が熱くなった。

 これからも夫婦で、彩花にとってのよい環境づくりに努めるとともに、彩花がいるからこそできることはないかを考え、実行していきたい。そのように考えている今日この頃である。

 

[HOME] [目次]


3 ボランティアに参加して

 「障害児サマーホリデーサービス事業」という言葉をご存じでしょうか。地域によっては若干名称が違うかもしれませんが、養護学校や障害児学級に通う子供たちが、夏休み期間中に有意義な生活を送ることができるように行われるデーサービスのことです。

 私の娘がインフルエンザ脳症による後遺症で障害児となり、介助を始めてから一年半が経ちました。この経験が他の障害を持つお子さんにも役立つのではないかとの思いから、初めて福祉ボランティアに参加することを思い立ちました。

 日々デスクワークの私にとっては、体力的にきつい部分もありましたが、マンツーマンで関わったお子さんに笑顔が見られると疲れも吹っ飛び、心地よい充実感に浸ることができました。

 また、学生さんはじめ、高校や中学の生徒さんもボランティアに参加され、懸命に活動されていた姿を見て、「すぐキレる」、「意欲がない」などと言われている今の子供たちを見直すことができたことも収穫でした。社会人の参加は教員や福祉関係者が多く、もっと一般へと広がればと感じました。やはり障害への偏見を解消する上で大切なことは、肌で感じてみることだと思います。

[HOME] [目次]


4 小学校入学に当たってのお願い

 1年1組のみなさん、ご入学おめでとうございます。

 私は、ここにいる彩花のお父さんです。

 彩花はこれからこの1年1組と○○学級でお世話になることになっています。

 そこで、今日はみなさんにお願いがあります。

 みなさんは「インフルエンザ」って、知っていますか。

 そう、風邪の中でもなおりにくい病気ですね。

 普通は、のどや鼻に入って、咳が出たり、鼻水が出たりするのですが、彩花の体の中に入ったインフルエンザは、彩花の頭の中を攻撃したのです。

 彩花はもう少しで、インフルエンザの攻撃に負けて死んでしまうところだったのですが、なんとか助かりました。

 でも、頭の中をやられてしまった彩花は、覚えた言葉も、歌も、歩き方も忘れて、赤ちゃんに戻ってしまったのです。

 ようやく、歩けるまでにはもどってきましたが、まだひとりで階段を上り下りができません。

 それから、まだ言葉は分かりませんし、しゃべることもできません。

 そこで、みなさんにお願いがあるのですが、聞いていてくださいね。

 一つ目は、彩花はまだ赤ちゃんのようですが、1年1組のお友だちの一人として、仲良くしてくださいね。

 二つ目はもし、彩花が一人で階段の方へ行ったり、危なそうだったら、「危ないよ」って止めてやってくださいね。

 三つ目は、彩花はしゃべれないので、もし彩花がけがをしたりしたら、先生に教えてあげてくださいね。

 それから四つ目は、彩花は1階の○○学級に行っている時がありますので、時々遊びに来てくださいね。

 1年1組の保護者のみなさん、お子さんのご入学おめでとうございます。

 私の娘、彩花は2年前にインフルエンザ脳症で倒れ、回復してきているものの軽度の運動障害と重度の知的障害が残っています。

 養護学校に通学するよう勧められもしましたが、保育園ではお友だちに囲まれて、多くの刺激をもらいました。

 そして、もっとたくさんのお友だちの中でたくさんの刺激を受けさせてやりたいとの思いから、○○小学校への入学をお願いしました。

 このような私たち一家の思いをお受け止めいただき、あたたかく見守っていただけると幸いです。

 最後に、このような時間をお取りくださいました先生にお礼を申し上げます。

 それでは、よろしくお願いいたします。

[HOME] [目次]


5 「インフルエンザ脳症による後遺症を持つ娘と家族のページ」からの情報発信

娘の発病

 私の娘、彩花は平成十年二月の四歳の誕生日の前日に、「インフルエンザ脳症」にかかり、その後遺症として、てんかんと重度の知的障害、そして軽度の運動障害をもつことになりました。

 発病した当時は、お医者さんの間でもインフルエンザ脳症はあまり知られていなかったようで、主治医の先生も手探りのような状態の中、懸命に治療にあたってくださいました。

 そして、一時は脳がはれあがり、このままでは中枢部分である脳幹が押しつぶされ、命が危ないというところまでいったのですが、治療の甲斐あって、なんとか一命をとりとめることができたのです。

 しかし、赤ちゃんに戻ってしまったような娘を前にし、これからどのようになっていくのか、どのようにすれば回復するのか、どうやって生活していけばよいのかと、先の見えない不安におしつぶされそうになりながらの生活は、重く沈んだものとなりました。

 とにかく、この病気や後遺症のことについて知りたい、また、同じ病気で後遺症を持つことになったお子さんとその親御さんに巡り会いたいという思いにかられました。

 この病気による患者の会がないか、あちこちに問い合わせたり、普及し始めていたインターネットで、ホームページを検索したりもしましたが、なかなか必要とする情報を得ることができませんでした。

 その後、同じ病気によりお子さんを亡くされた方が中心となって、「インフルエンザ・脳症親の会『小さないのち』」が立ち上がります。

 似通った境遇の方との出会いは、私達夫婦の深く沈んだ気持ちを癒し、勇気づけてくれるものとなりました。

 また、多くの方が、私達と同様、同じような体験をした方との出会いを求めておられるということも知ることができました。

 

ホームページを立ち上げる

 娘の発病から一年後、季節は巡り、またインフルエンザの流行する冬がやってきました。

 そして、またしてもインフルエンザ脳症で尊い命が奪われているとの報道を目のあたりにして、医療技術は日進月歩だといわれているのに、どうして一年経っても同じ事が繰り返されるのかと、やるせない思いが募りました。

 また、目にするのは亡くなられた方の報道ばかりでしたが、娘と同じように、命は助かっても後遺症に苦しめられているお子さんも相当おられるに違いないと思うと、何か私達夫婦にできることがないかという気持ちがわき上がってきました。

 そこで、私達夫婦の手で親の立場に立った情報を発信しようと、インターネット上へのホームページの立ち上げを思い立ったのです。

 インフルエンザ脳症に襲われた子供を持つ親御さんに、有益と思われる情報を提供できれば、また、その親御さんと情報を交換させていただくことができれば・・・。立ち上げるからには、私達夫婦が一年前に直面した悩みを少しでも解消できるような内容にしたいと構想はふくらんでいくことになります。

 思いをつづり、ホームページを作り上げていく作業は、私達夫婦の気持ちを整理し、立ち直る上でも、重要なものとなりました。「書く」ということが、私達夫婦の深く傷ついた心の癒しとなっていきました。

 また、一般の方に、インフルエンザ脳症という病気や子供の障害について、関心を寄せてほしいという願いをも込めました。

 そして、試行錯誤の末、平成十一年五月八日、私たちのホームページ「インフルエンザ脳症による後遺症を持つ娘と家族のページ」立ち上げの日を迎え、情報発信を開始します。

 

立ち上げて良かった!

 その後、「同じような気持ちで我が子と接してきました」、「インフルエンザ脳症と言われたがどうすればよいのでしょうか」というような電子メールが舞い込むようになり、情報交換をしていく中で、立ち上げたことは間違いではなかったと確信していくのです。

 いただいた電子メールの内容のいくつかについては、ホームページ上に掲載しており、どなたでも見ることができます。すると、「ホームページに掲載されている方との情報交換をしたいのですが」といった電子メールが届くようにもなりました。

 インフルエンザ脳症を発病した方同士は身近ではなかなか出会うことができず、また、後遺症の程度もまちまちです。そのような中で、私たちのホームページをきっかけに、似たような経過の方同士の情報交換が始まり、広がりを見せていきます。このような橋渡しができることも私達がホームページを立ち上げて良かったと思える瞬間です。

 娘は不幸にしてインフルエンザ脳症を発症し、その後遺症に苦しめられることになってしまいましたが、その経験が活かされていると実感できることで、娘が今を生きている意味のひとつを見いだせたようにも思います。

 ただ、残念ながら「てんかん」に関する情報は私たちのホームページにはあまり掲載していません。
 波の会はもとより、てんかんセンター、更には個人の方のものも含め、「てんかん」に関する優れたホームページは数多くありますので、そちらを参照いただければと思います。

 

波の会との出会い

 一時期、娘はてんかんの発作により、転倒してけがをすることが絶えない時期がありました。娘のその姿を前にし、不憫な思いにかられ、何か情報を得られないかとの思いから「波の会」に入会させていただきました。

 そして、毎月送られてくる本誌「波」で「てんかん」に関する多くの情報をいただきました。本誌の特徴のひとつに「てんかん」に関する専門知識を分かりやすく解説されていることが挙げられると思います。

 知識の普及と仲間との出会いを大切にする本誌が、ますます充実したものになることを期待しています。

 現在、発病から三年が経過し、娘は地域の小学校の障害児学級に通う一年生になりました。娘のてんかんは今のところ、大きな発作にはみまわれていませんが、日に数回うなずくようなものが見受けられます。

 薬を増やすと眠気やふらつきが増え、薬を減らすと発作が増えるというような状態です。

 てんかん医療の更なる発展により、生活の質を落とすことなく、てんかんの発作がコントロールされ、娘の知的な面の回復が進んでいくことを願っています。

 

おわりに

 娘の病気はインフルエンザ脳症ですが、脳炎や脳症を発症するのはインフルエンザだけではありません。

 また現在、厚生労働省の調査研究班がインフルエンザ脳症について研究を行っていますが、未だにメカニズムがはっきりしておらず、治療法も確立されたものはないようです。

 インフルエンザ脳症だけにとどまることなく、てんかん発病のきっかけとなる脳炎・脳症の一日も早い治療法の確立を期待しています。

[HOME] [目次]


6 妹ができた

○はじめに

 平成12年9月、我が家に待望の次女が産まれました。

 彩花に妹ができたのです。

 今回は、次女の出産にあたり利用した福祉制度などについて、お話ししたいと思います。

○彩花のインフルエンザ脳症発病、そして引っ越し

 平成10年2月に我が家の長女彩花は、インフルエンザ脳症を発病しました。

 そして入院から3か月、急性期も過ぎ、そろそろ退院をという話がありました。

 なにか追い出されるような感じもしましたが、リハビリで回復させてやりたいとの思い、これからの介助をどうするかといった不安が入り交じる中、病院探しを始めました。

 そして、隣県のこども病院がリハビリに熱心で、隣に総合療育センターがあるということ、さらに、障害者生活支援センターが行う24時間対応のホームヘルプサービスがあるということを聞きつけ、家族3人で見ず知らずの土地に引っ越しました。

 24時間対応のホームヘルプサービスは、まさに必要とするときにいつでも対応してもらえるサービスで、実際にサービスを使わなくても、そういった体制がとられているというだけで「何かあれば助けてもらえる」との安心感がありました。

○次女出産にあたって

 まず、次女出産にあたって、妻が産科に入院している間、彩花の介助をどうするか、これが一番の悩みの種でした。

 選択肢として、24時間対応のホームヘルプサービス、ショートステイ(入所施設への短期入所)、てんかんの経過観察とリハビリのための入院などが考えられました。

 彩花は当時、地域の小学校の障害児学級に通う1年生で、学校をどうするかが問題となりました。

 ショートステイする場合、入所施設の校区の小学校は、障害児学級に既に多くの障害児が通っており、常時目の離せない彩花をさらに受け入れるのは難しそうであるということを、施設の職員さんから聞きました。

 また、その地域の養護学校に入ることも考えたのですが、ショートステイ終了後に元の小学校に戻れない可能性があること(養護学校から小学校への転籍は非常に困難だといわれています)を聞かされ、さらに、施設が自宅から距離的に少し離れていたこともあって、ショートステイの利用は選択肢から消えました。

 そこで、陣痛が始まればすぐにホームヘルプサービスを依頼し、妻は産科に入院、こども病院の空きベッドの状況をみて、できるだけ早いうちに彩花を入院させるということにしました。

 また、幸いなことにこども病院には、入院患者のためだけの病弱児養護学校が併設されていました。

 この養護学校は退院後、元の学校にもどることが原則となっていたことから、入院中は安心してこの養護学校に通わせることにしました。

○出産前の対応

 小学生になった彩花を何度も抱き上げたり、日々のお世話をすることは、身重な妻にとって大変なことでしたので、妻の体調が悪くなれば、ホームヘルプサービスを使うことを考えていました。

 また、夏休み期間中は、彩花をサマーホリデーサービス事業に参加させ、妻が安静にできる時間を確保しました。

 サマーホリデーサービス事業は「市手をつなぐ育成会」に委託する市の事業で、障害児が楽しく充実した夏休み生活が送れるように開かれているものです。

 延べ20日間あり、学校の先生から中学生まで、多くのボランティアが参加し、ほぼ1対1で創作活動や作業活動、水泳などに取り組んでもらえます。

○出産後の対応

 出産後しばらくの間、妻は、昼夜を問わず次女の世話に追われることになります。

 私は、彩花の介護のため上司、同僚に了解を得て介護休暇をもらうことにしました。

 そして、私の介護休暇の終了後しばらくは、ホームヘルプサービスを依頼し、彩花の小学校への送迎をお願いしました。

 その後も、妻が腰痛で動けなくなった時や、夏休み中の小学校のプールの開放日、子供会の行事の時などに、送迎や介助のためホームヘルプサービスを利用しました。

 以上のように、多くの制度を利用する中で、なんとかこの1年間を過ごしてきたのです。

○ おわりに

 1歳になり、はやくも彩花の知的レベルを追い抜いてしまった次女。

 発達の速さには目を見張るものがあると実感しています。

 同時に、次女には健康に育ってくれることを切に願っているところです。

 私たち一家の経験が、そのままお役に立つかどうかは分かりませんが、少しでも参考になる部分があれば幸いです。

[HOME] [目次]


7 学校教育法施行令の一部を改正する政令案に対する意見

 私の娘は肢体不自由と知的障害を有し、養護学校へ就学するよう指導されましたが、地域の小学校の障害児学級に在籍しています。

 ノーマライゼーションの観点から、意見を述べさせていただきます。

 本改正は、社会のノーマライゼーションの進展や教育の地方分権の観点から見直すとのことですが、分離・別学体制は維持されたままで、根本的に見直されたとは言い難いものがあります。

 ノーマライゼーションの進展をいうのであれば、どんなに重度の障害児であっても地域の学校に通えるようにするべきです。

 そして、地域の学校の中で教育的ニーズに応じた適切な教育が行える環境を整備すべきです。

 また、養護学校は、ノウハウの蓄積を行い、研究や専門職員の派遣を行うような、障害児教育の情報センターとしての役割を担うべきと考えます。

 現在、地域の小学校に通うことで、娘は「毎日の健常児からの刺激」を受け、成長しています。

 また、周囲の児童は「毎日のありのままの娘の姿」を受け止めながら、差別や偏見もなく、心優しく接してくれています。中には、毎日のように障害児学級へ足を運んでくれる児童や、自宅に遊びに来てくれる児童もいます。

 これは、養護学校では得られることのできない貴重な体験です。たとえ、養護学校が年に数回の交流を行ったとしても、得られるものではありません。

 ぜひ、障害の軽重に関わらず、地域の学校に在籍でき、その中で適切な教育が行えるよう改めていただきたいと思います。

 次に、第22条の3の表の改正では、現行の同表に該当する多くの児童が、既に地域の小学校に通っているという現状を追認した程度の内容と思え、何ら目新しいものは感じられません。

 特に、知的障害児は、字句の修正がされているものの、昭和53年10月6日付け文初特第309号通達と基本的に変わらないものと見受けます。

 これだけ、ノーマライゼーションの進展を唱っていながら、なぜ、知的障害児はその恩恵を受けて変更されないのでしょうか。

 今回の改正が、医学や科学技術の発達といったハード面だけに焦点が当たっていることを残念に思います。

 少なくとも、補装具で日常生活ができる肢体不自由児に門戸を拡大するのであれば、教師の援助で日常生活ができる知的障害児にも門戸を拡大することを求めます。

 以上のように、分離するのではなく、地域の学校に日常生活の援助やニーズに応じた適切な教育を行える環境を整えることが、教育のノーマライゼーションであり、文部科学省の責務であると考えます。

 何とぞ、よろしくお願いいたします。

[HOME] [目次]


8 彩花の就学

(保育所入所まで)

 平成10年2月11日、彩花はインフルエンザ脳症を発症しました。

 当時、3年保育の幼稚園の年少クラスに通っていましたが、退園を申し出ざるを得ない状態にあると判断しました。

 病院を退院した後、機能の回復を願って、県立心身障害児総合療育センターへの母子通園を開始しました。

 しかしながら、療育センターでは重度障害児が多く、子供同士の関わりが生まれにくい状況にありました。また、大人からの刺激だけでは、知的な面の回復に限界があるのではないかと感じ始めていました。

 そこで、11年度から、健常な子供達との関わりを求め、保育所への入所を申し込むことにしました。

 しかし、市の福祉事務所と保育所側は、予想以上に難色を示しました。

 経管栄養のチューブを留置していたこと、てんかんの発作に対する安全面の確保に困難があるということ、そして、知的な障害が重度であるということがその理由でした。

 療育センターからも応援を仰ぎ、何度も話し合いを重ねた結果、週1回は市の療育教室に併行して通うということで入所が認められました。

 晴れて保育所に入所できた彩花は、年長組のやさしい保育士さんとお友達との関わりの中で生活する、貴重な1年間を過ごすことになりました。

 鼻のチューブがはずれ、体力はつき始め、表情が良くなりました。周囲のお友達は、偏見なく自然に関わってくれました。こうしたことが、この子達と同じ地域の小学校へという意識を抱かせるようになっていきました。

(小学校入学まで)

 まず、就学前1年間の動きを記してみます。

 6/ 1 療育教室の就学研修会…………………制度の説明を受ける
 6/28 Y知的障害養護学校見学(1回目)…養護学校と小学校の見学を開始
 7/ 5 小学校見学(1回目)…………………障害児学級を見学
 7/12 K養護学校見学
 7/13 Y肢体不自由養護学校見学
 8/ 5 県巡回教育相談
 9/16 S附属養護学校見学(1回目)
 9/27 市教委との話し合い(1回目)………小学校への就学を希望するとの親の意向を話す
10/ 1 Y知的障害養護学校見学(2回目)
10/16 共生共育をめざす県連絡会へ相談……市教委と対立した際の援助を要請
10/19 就学時健診
10/26 S附属養護学校見学(2回目)
11/ 8 小学校見学(2回目)
11/10 Y知的障害養護学校見学(3回目)
11/25 市教委との話し合い(2回目)………養護学校が適当とする適正就学指導委員会の判定結果を聞く
12/21 市教委との話し合い(3回目)………親の意向は変わらないことを伝える
 1/ 5 市教委との話し合い(4回目)………療育センターを交えての話し合い
 1/26 市教委との話し合い(5回目)………小学校への就学を認める旨の話がある
 3/21 小学校との話し合い(1回目)………受入に当たっての話し合い開始
 4/ 8 小学校との話し合い(2回目)
 4/10 入学式……………………………………障害児学級と1年1組に

 親の考えは、当然のことながら、彩花にとって最善と思われる学校に就学させるということにありましたので、まずは各学校の見学から始めました。

 小学校の障害児学級にくらべて、養護学校はさすがに手厚く、授業の内容が充実しているように感じられました。

 小学校への就学を希望すると言ったものの、正直なところ当初は迷っていました。

 しかしながら、養護学校での教育がどこまでの発達を保障してくれるのか明らかにできないこと、小学校で教育を受けることに限界を感じた時には、養護学校への転校は容易であること、養護学校には決してないものが小学校には存在するということ、発達に見合ったきめ細かな教育という名目のもとに、または障害があることを理由に、地域や社会から分けられたり、あたりまえに生活することが妨げられたりしてはいけないし、たとえ重い障害があろうとも、学校生活をも地域の中で送ることが自然なことであり、それが障害を理解してもらうことにつながっていくと思えることから、小学校へという考え方は固まりました。

 そして、地域の小学校という場の中で、彩花にとってできるだけの学習環境を整えてもらおうという考えに至りました。

 市教委との話し合いについては、保育所入所の際のことがあったので身構えて臨んだのですが、想定していたほどではなく、親の意見にも耳を傾ける姿勢が感じられるものでした。

 我が子のことを良く知り、一番思い、生涯にわたってずっと寄り添っていくのは親です。そして、我が子が教育を受けることは権利であり、就学先を決めるのは本人か親であるという信念に間違いはないと思っています。

 もし、教育委員会と対立するようなことがあったとしたら、親の意志をはっきり固く伝え、ねばり強く取り組まれますよう応援しています。

 就学決定後の小学校との話し合いでは、健康面や安全面への配慮、親や関係者との連携、学習の内容、普通学級との交流などについてお願いしました。

(おわりに)

 現在4年生になり、校長先生も変わられましたので、小学校に改めてお願いにあがりました。

 養護学校の方が良かったのかもしれないとの思いもよぎることがありますが、彩花はゆっくりながらも成長しています。

 小学校では、子供達に彩花を知ってもらえていますし、みんな彩花のことを見慣れています。もちろん、いじめられるようなことはありませんし、中にはとても良い関わりを持ってくれたり、家に遊びに来てくれたりする子もいます。小学校に通うことでしか味わえなかった良さを感じています。

 保護者の方々には、学級懇談や子供会の総会等の場で、インフルエンザ脳症や障害のことについて自己紹介をし、理解と協力を得られるようお願いしています。

 学校生活で何を得たいかは、それぞれの思いによると思います。

 できるようになることは大きな喜びです。しかし、できないことがあるなら、さしのべてくれる手があった方が、理解をもって温かく見守ってもらえる方が、幸せに暮らしていけるような気がします。

 十数年後、彩花の近くには、または誰か援助の必要な人の近くに、成人した同窓生が寄り添う姿があることを期待しているところです。

[HOME] [目次]


9 お父さんの子育て

(はじめに)

 はじめまして。

 本日は、障害のある娘の子育てに、父として、どのように関わってきたかといったお話の機会をいただけるということで、感謝をいたしております。

 この場をお借りして、お礼申し上げます。

 つたない話ではございますが、おつきあいいただければと思います。

(経過)

 それでは、まず、障害を負った娘のこれまでの経過をお話しさせていただきたいと思います。

 平成10年2月11日、忘れもしません。

 4歳の誕生日を翌日に控えた娘、彩花がインフルエンザ脳症を発症しました。

 それまで大きな病気もせず、すくすくと育ち、幼稚園に通っていた彩花は、この日を境に障害児となりました。

 夕方には、誕生日のプレゼントを見て、高熱でしんどいながらも、満面の笑みをたたえていた彩花が、まさか、このようなことになろうとは、全く思いもよりませんでした。

 その夜、不安そうな表情の彩花に、私は「大丈夫やで。ねんねしいや。」と声をかけ、寝かしつけたのですが、全く大丈夫ではありませんでした。

 しばらくして、彩花はインフルエンザ脳症を発症し、取り返しのつかないことになってしまうのです。

 生まれて初めてのひきつけ、「熱性けいれん」かとしばらく様子を見ていましたが止まりません。

 マンションのオーナーがお医者さんで、夜分にも関わらず、けいれん止めの座薬を入れてくださいましたが、それでも止まりません。

 救急病院に連絡してもらって、私が彩花を抱き、妻が車を運転し、病院に急ぎました。

 ようやく、点滴でひきつけは治まったものの、そのまま入院。翌日の検査の結果、ここでは手に負えないと、転院することになり、救急車で運ばれました。

 転院後の検査の結果、「脳がはれています。このまま腫れ続けると、命の危険があります。あとは、娘さんの体力次第です。」との説明を受けました。

 あれよあれよという間に、症状が悪化し、彩花はたくさんのチューブにつながれ、横たわっています。

 しかし、私にはとても現実のこととは思えませんでした。

 生死の境をさまよった末、ようやく、入院から10日後、「脳のはれが引き始めています。」との説明を受けました。

 彩花は一命をとりとめたのです。

 しかし、命は助かったものの、現実は甘くはありません。

 今度は、「後遺症は重く、一生寝たきりということも覚悟するように」との宣告を受けました。

 これまでの「命だけは助かってほしい」という願いは、「元どおりになってほしい」という願いへと変わっていきます。

 そして、この願いが届いたのか、症状が落ち着きをみせ始めたころから、生まれたばかりの赤ちゃんが成長していくのと同じように、首が座り、よつばい位、お座りと回復を始めました。

 その後、発症から3か月して、十分なリハビリを受けさせてやりたいとの思いから今住んでいる地に引っ越しました。

 そして、こども病院での1ヶ月間の訓練入院を経て、ようやく退院の日を迎えました。

 一時は覚悟した我が子の死、在宅での介護は大変とはいえ、親子水入らずで、再び生活をおくれるようになったのです。

 退院後は、リハビリ、療育に期待をかけて、療育センターへの通園が始まりました。

 多くの専門職の方が、精一杯彩花に関わってくださり、家庭でも、教わったことを繰り返し実践しました。

 しかし、期待していた知的な面の回復は、運動面の回復ほど、顕著には現れませんでした。

 何かが足りないのではないだろうか。

 大人との関わりだけでなく、普通、子供は子供の中で育ちます。

 健常な子供達と一緒に、普通の生活を送る中で、子供達からの刺激を受けることも必要ではないだろうかという考えにたどり着きました。

 また、彩花と同年代の健常な子供達に、彩花の日常を知ってもらい、将来、あてにできるわけではありませんが、大人になったとき、そして、親亡き後の地域生活が、少しでも安心できるものになっていてほしいとの願いもありました。

 そこで、就学前の一年間は保育所に通い、外来扱いで、リハビリを続けていくことにしたのです。

 この保育所での一年間は、健常な子供達と生活を共にし、やさしさに触れることのできた貴重な一年となりました。

 そして、この子達と一緒の小学校に通わせたいと思うようになるのです。

 就学指導では、養護学校へとの指導があり、養護学校にも見学に来させていただきましたが、地域の小学校へとの気持ちが強く、地元の小学校の障害児学級に通わせることにしました。

 健常な子供達と接する時間は、保育所に比べると少なくなりましたが、今、期待していたことが現実のものになっています。

 普通学級との交流の場面では、彩花を呼びに来てくれたり、「遅いやん」と言って待っていてくれたり、「彩花ちゃんの場所はここだよ」と教えてくれたりします。

 当たり前のことなのですが、彩花は仲間の一人として認められているのだ、彩花の居場所がちゃんとあるのだということを感じさせられます。

 また、彩花のことについて、いろいろ質問してくれたり、おもちゃを渡してくれたり、手をとってくれたり、声をかけてくれたりするお友だちの姿があります。

 登下校では、手をつないで誘導してくれるお友達ができました。

 夏休みの、小学校のプール解放日には、ホームヘルプサービスを利用しているのですが、ヘルパーさんから「上級生が彩花の手を取り、プールの中で関わってくれていたので、私は何もすることがなく、他の子供達の話し相手をしていました。」といったうれしい報告もいただきました。

 このように、子供達は、日常的に彩花に接し、ありのままの姿を見る中で、「どう接っしていけば良いのか」ということを、自然と身につけていってくれているように感じるのです。

 そして、このような、積極的に関わりを持ってくれようとする子供達の存在と、元気な子供達の歓声や熱気に包まれる瞬間は、何ものにも代え難いことと思っているところです。

(次女の出産)

 さて、私達夫婦は彩花の介護に追われ、月日を重ねていくわけですが、幸いにも新たな生命が芽生え、妻は妊娠しました。

 私は、彩花の介護に加え、産前産後の妻にかかる負担を考えて、できるだけ心配事の少ない状態でその時を迎えられるよう、事前に手はずを整えることにしました。

 まず、生活支援センターにはホームヘルプを頻繁に利用することを伝え、こども病院には妻の出産時にあわせて、彩花のてんかんの検査入院を設定してもらい、学校に関しては病院に併設された病弱児養護学校への転入ができるようお願いし、出産の時を待ちました。

 そして、予定どおり、妻は無事、次女を出産します。

 ちょうど2歳になったところですが、次女の成長と共に、我が家も明るさを取り戻しつつあります。

 次女が明るさを運んできてくれています。

 とは申しましても、二人の子供の世話に追われ、過度のストレスから、この2年の間にも、妻が何度となくダウンすることがありました。

 しかし、その都度、福祉サービスや私が仕事との折り合いをつけながら、夫婦で乗り越え、今に至っています。

(動機)

 経過は以上のようなことですが、それでは、本日のテーマであります、父親としてどう感じ、どう関わってきたかということについて、お話ししたいと思います。

 よく、障害児をお持ちのお母さんから「協力的なお父さんでいいわね」と言われることがあります。

 また、「中途障害の子供を持つお父さんに、協力的なお父さんが多いように思う」というお話を伺ったこともあります。

 まずひとつめは、なぜ子育てに協力的になることができたのかということをお話ししたいと思います。

 先ほどもお話ししましたように、彩花はインフルエンザ脳症を発症したわけですが、その入院中、苦しそうにしている彩花を目の前にして、私はただ見守っていることしかできない「無力感」と、『大丈夫』と言って寝かしつけておきながら、彩花を守ってやることのできなかった「罪悪感」に囚われました。

 また、「ずっと寝たきりのままかもしれない」との宣告を受けたときには、彩花の健やかな成長を疑わず、おぼろげに夢みていた将来の家庭、ささやかな夢が、私の心の中で音を立てて崩れていきました。

 そして、「死ぬまで面倒を見なければいけない。」こう考えると、もうお先真っ暗で、まるで私の人生が終わったかのような「閉塞感」に襲われました。

 そして、私を押しつぶそうとするこれらの罪悪感、無力感、閉塞感から、なんとか開放されたい、開放されなければもう先には進めないとの思いにかられたのです。

 これが、彩花の子育てに積極的に関わる原動力になりました。

 介護、リハビリに励むことで、彩花の回復を促し、なんとか元に戻してやることができれば、そうすれば、私を襲うこれらの感覚からも開放されると考えたのです。

 退院後には、おむつ換え、入浴、鼻のチューブの入れ方から流動食の注入など、彩花に必要な全ての介護を、私もマスターすることにしました。

 これも、もし夫婦のどちらかが倒れても、夫婦共倒れになるまで、彩花の面倒をみつづけられるようにしたい、みつづけなければならないという罪滅ぼしの気持ちが含まれていました。

 このように、彩花の発症から、生死の境をさまよい、一命をとりとめるまで、妻と共に目の当たりにしてきたこと、このことが、その後の父としての子育てに、大きな影響を与えるようになったと思っています。

(仕事との関わり)

 ふたつめは仕事についてです。

 父親が子育てに関わるためには、仕事との兼ね合いを話さないわけにはいきません。

 発症当時、私は連日深夜までの残業、休日出勤と多忙を極めていましたが、事情を承知した上司と同僚の配慮で、幸いにも介護休暇という制度を利用することができました。

 とても仕事が手につく状態ではなかったと思いますし、生死の境をさまよう彩花のそばに居続けることができましたので、大変ありがたく思いました。

 とは申しましても、病院では、妻と昼夜交代で声をかけ、身体をさすり、見守るといったことしかできることはありませんでした。

 しかし、これまで、仕事に追われ、家庭を顧みることもままならなかった私にとって、家族の大切さを再認識させる、何ものにもかえられない時間となりました。

 また、次女の出産後しばらくの間も、彩花の介護のために休ませてもらうことにしました。

 世間はリストラ、賃下げと不況風が吹き荒れ、会社によっては、これを理由に退職を勧められてもおかしくなかったでしょう。

 そのような中で、休みを許可されたときには、給料が出ませんので生活は苦しくなりますが、解雇されないことをありがたく感じました。

 そして、この時、彩花の介護をマスターしたことが、大いに役立ちました。

 また、介護、育児の大変さというものが、より理解できたように思います。

 このように、職場の理解を得る中で、仕事を休ませてもらえたことが、家族の大切さを再認識する機会となり、子育てに積極的に関わる後押しの役目を果たしたと思っています。

(願い)

 さて、ここで、せっかくこのような機会をいただけましたので、いくつか、私がこうなってほしいと願っていることをお話しさせていただきたいと思います。

 まず一つ目は、インフルエンザ脳症による犠牲者が出なくなってほしいということです。

 この病気は、短期間で死に至ったり、重篤な後遺症を残したりする恐ろしい病気です。

 この病気の原因解明と、この病気にかかったとしても後遺症を残さず回復できる治療法の確立を願っています。

 二つ目は、仕事を休むことについて、上司、同僚が理解を示してほしい、そういう社会になってほしいということです。

 幸いにも私の場合、職場の理解を得て、仕事を休むことができましたが、まだまだそうでない職場もあろうかと思います。

 介護休暇や、育児休暇の制度があっても、休みにくい雰囲気では休暇を取ることがはばかられてしまいます。

 少子高齢化の時代です。

 誰にでも介護休暇を取りたいという状況におかれる可能性はあるのです。

 ぜひ、介護を理由に休んだからといって、不利益な扱いとせず、お互い様と理解を示していただきたいと思っています。

 三つ目は、養護学校の先生もいらっしゃいますので、お話ししにくいのですが、学校制度の問題です。

 世界の流れはノーマライゼーション、インクルージョンへ進んでいるわけですが、ご承知のとおり、わが国では、なぜか障害児は養護学校という健常児と別の場所で、教育を受けるような仕組みになっています。

 このため、文部科学省は「個々の障害児のニーズに見合った教育をする」と言っていますが、たとえば、「健常児と同じ場所で、専門性の高い教育を受けたい」というニーズがあったとしても、これに応える体制は全くできていないのです。

 今後、願わくば、地域でも十分な教育を受けられるよう、養護学校の先生のお力添えをいただきたいと思います。

 先生方には、養護学校の敷地を離れ、もっと地域に出向いてきていただきたい、養護学校が障害児教育のセンターとなり、地域の小学校の専門性を高めるような支援をしていただきたいと思っています。

 また、国が、かたくなに分離教育を堅持していくとしても、小学校の空き教室などに「ミニ養護学校」を併設し、健常児から重度障害児まで、全ての学齢児が同じ場所で教育を受けられるような環境を実現してほしいと思っています。

 ちなみに、小学校の空き教室に養護学校をつくる動きは、宮城県などいくつかの県で見られています。

 できないことではありません。

 ぜひ、今日お集まりの先生方も、そういった視点をもっていただければと思います。

  あと、もうひとつだけですが、養護学校の先生方には、通学している子供達の能力を高めることだけでなく、ぜひ、子供達をとりまく周囲の能力を高めていくことに、もっと力を注いでいただきたいと思っています。

 彩花は、小学校入学後も、毎年就学指導を受けています。

 昨年は、養護学校の先生をされている就学指導委員さんから、一口で言うと「今、養護学校に来て子供の能力を高めないと手遅れになりますよ。」というような、指導をいただきました。

 おっしゃるとおりなのかもしれません。

 しかし、今すぐ転校しようと思わなかったのは、養護学校に移れば明るい未来が待っているかというと、そうとも言い切れないと思っているからです。

 障害を持つ子供の能力を引き出し、社会に適応しやすい姿に高めていくことは、誰もが願うことです。

 しかし、障害をもつ子供の能力には、限界があると思います。いくら頑張っても、いくら頑張らせてみてもできないことが残っていくということは、先生方の方がより実感されているかもしれません。

 そこで、子供の能力を補うため、とりまく環境、周囲の支えが必要になるわけです。

 私は、この周囲の能力を高めるために、欠かすことのできないこととして、周囲にいる「人」の意識を変えていくことが挙げられると思っています。

 そして、「人」の意識を変えていくためには、障害をもつ子供達がもっと周囲に身近な存在としてあること、共に生き、共に育つ「共生共育」が重要なのではなかろうかと思っています。

 折しも、養護学校の寄宿舎の先生方を中心とする「やさしいまちをつくり隊」の方から、障害をもつ子どものための生活ガイド「子育て応援BOOK」が発刊されました。

 私も購入させていただきましたが、寄宿舎の先生方が学校の中のことだけでなく、子供達をとりまく周囲の環境に目を向けてくださったことは大変ありがたいことだと感じました。

 このガイドブックを足がかりに、より子供達の周囲の環境を改善していくような取り組みが行われること、そして、寄宿舎の先生方だけでなく、全ての養護学校の先生方に周囲の環境に目を向けた取り組みが広がっていくことを期待しています。

(おわりに)

 おわりに、これからの子育てをどうしていきたいかということについて、お話しさせていただきます。

 彩花が障害児となってから4年、8歳になりました。

 私は、障害児の親となって、まだまだ年数は浅く、これからのことを考えると不安でいっぱいです。

 これからも、専門家の方々、先輩の親御さん方などに助言をいただきながら、彩花にとって、そして次女にとって、どうしていくのがよいのか夫婦で話し合い、子育てを進めていきたいと思っています。

 ここにおいでの方々には、その節にはどうぞよろしくお願いいたします。

 また、私も忙しい職場に転勤する可能性がないわけではありませんが、今後もできるだけ、父親として、育児、介護に参加し、時には社会に声をあげていくことで、障害があろうとなかろうと、住みよい暮らしができるよう働きかけたいと思っております。

 その実践のひとつとして、ホームページを作成しています。

 タイトルは「インフルエンザ脳症による後遺症を持つ娘と家族のページ」と申します。

 検索エンジンで「インフルエンザ脳症」をキーワードに検索していただければ、ご覧いただけると思います。

 よろしければご一読ください。

  最後まで、とりとめのない話となりましたが、障害児を持つ父親の思いのひとつとして、受け止めていただければと思います。

 本日は、ありがとうございました。

[HOME] [目次]


10 市福祉計画案に対する意見

 この計画の基本理念である「障害者の地域での自立生活と共生社会の実現」を願う立場から意見を述べさせていただきます。

 まず、共生社会実現のためには、健常者と障害者が日常的に場を共有することが必要であると考えます。

 この計画をライフステージにあわせてみていきますと、就学前は「統合保育の推進」が、学校卒業後は、「一般企業への雇用促進」が掲げられ、共生社会の実現のための施策が打ち出されています。

 しかし、この間にある就学期は「放課後児童クラブへの障害児の受け入れ」は掲げられていますが、日中活動の大半を占める学校内での場の共有に関してまったく触れらておりません。

 この計画の「今後の取り組みへの意見」において、「普通学級においてすべての児童・生徒が『ともに生き、ともに育ち合う』ことを目指した教育を受けることが本来あるべき姿」と述べられていますが、まったく同感です。

 ぜひ、「統合保育の推進」と同様に「統合教育の推進」を、「一般企業への雇用促進」と同様に「普通学校への就学促進」をこの計画に盛り込まれ、共生教育が実現するよう望むものです。

 また、「今後の取り組みへの意見」において、「小学校における加配職員の配置の検討」が挙げられていますが、ぜひ、市長の公約であった「少人数学級の導入」の際にあわせて、「通常学級及び障害児学級に在籍する障害児に対する必要に応じた加配職員の配置」の実現を求めます。

 さらに、個別指導計画は「障害児保育」と「通常学級における障害のある児童」にしか言及されていません。「障害児学級」にも明記されるよう求めます。

 また、学校教育における関係機関との連携については、盲・ろう・養護学校が「地域の特別支援教育のセンター的機能を有する学校」と位置づけられていることから、この計画に「盲・ろう・養護学校との連携強化」や「幅広い分野の専門的知識や技術を総合的に活用していくこと」を明記されるよう求めます。

 最後に、蛇足になりますが、P55の「特殊教育」も「特別支援教育」に改められるよう求めます。

 次に、重度障害者であっても地域での自立生活を望んでいます。

 これを実現するためには、「障害の有無にかかわらず、すべてのひとが利用可能なように、常により良いものに改良していこうという考え方」であるユニバーサルデザインの考え方を「福祉のまちづくり」といったハード面の施策だけではなく、「保健・教育・就労・福祉サービス」といったソフト面にも適用しなければならないと考えます。

 たとえば、保育所入所は障害の程度が『中等度』までを対象とするような運用がされていると思いますが、この計画の実施に当たっては、保健・教育・就労・福祉といったすべてのサービスについて、「障害の程度にかかわらず、重度障害者を含むすべての障害者が利用可能なように、常により良いものに改良していこうという考え方」に立ち、施策を展開するよう求めます。

 そして、重度障害者が利用可能なようにするために、必要であれば市単独事業を立ち上げるなど積極的な施策展開と、その財源を確保するために、この計画にその旨、明記されるよう求めます。

[HOME] [目次]


11 和倉いでゆ太鼓保存会の演奏会あいさつ

 みなさん、こんにちは。

 あいにくの雨の中をお越しくださり、ありがとうございます。

 この演奏会の呼びかけをさせていただきました○○○○と申します。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 演奏してくださいます和倉いでゆ太鼓保存会のみなさんは、きのう四国の丸亀という街で「日本の太鼓まつり」に出演され、きょう、石川県の能登半島、温泉で有名な和倉の街に帰る途中に、ここ○○小学校にお立ち寄りくださいました。

 この和倉いでゆ太鼓のルーツは、今から700年前にさかのぼる「雨乞いの太鼓」と言われているそうです。

 きのう、丸亀で精一杯、太鼓を打ち鳴らされたからでしょうか。

 きょうは恵みの雨ということになりました。

 さて、演奏を始めます前に、お話したいことがございます。

 演奏を楽しみにされている方には申し訳ありませんが、5分ほどお時間をいただくことお許しください。

 リビング新聞をご覧になってお越しの方もいらっしゃるかと思いますので、演奏会を開くことになったいきさつも含めてお話させていただきます。

 私の娘、彩花は平成10年、3歳のときにインフルエンザ脳症という病気にかかりました。

 この病気はインフルエンザが原因で頭の中の脳が腫れる病気です。

 5歳以下の子供に多く、大雑把にいいますと、4人のうち、2人の方は治りますが、1人は後遺症を持ち、残る1人の方は亡くなってしまう、非常に怖い病気です。

 彩花は一命をとりとめましたが、からだに麻痺が残り、話すこともできない大きな赤ちゃんのような状態になってしまいました。

 私たち夫婦は、これからこの子をどうやって育てていけばいいのか、途方にくれ、同じ悩みをお持ちの方と何とかして巡り合いたいとの思いから、「インフルエンザ脳症による後遺症を持つ娘と家族のページ」というホームページを立ち上げました。

 そして、このホームページをご覧になった和倉いでゆ太鼓保存会のメンバーの方が、彩花のことを元気付けたいと思ってくださったことで、この演奏会が実現したわけです。

 せっかく和太鼓を演奏してもらうのであれば、私ども一家のみでなく、小学校のお友達、地域の方にも演奏を聞いていただければと思い、小学校の体育館をお借りしたしだいです。

 そうすると、どうでしょう、このように大勢の方にお集まりいただけました。

 インターネットでのひとつの出会いが、そしてさらに遠方の方にも広がりました。

 私たちはこの出会いを大切にしたいと思っています。

 そして、この地域に暮らす娘、彩花の存在をより身近に知っていただければと願っているところです。

 最近、出会い系サイトに関連した事件など、インターネットを使った暗い話題が後を絶ちませんが、インターネットには、今日のような出会いもあるということも、申し上げたいと思います。

 それから、私たち夫婦は、彩花がこのような状態になったことで、市内にあるこども病院でのリハビリを受けるため、ここに引っ越してきました。

 見ず知らずの土地にやってきた私に、自治会の役員さんが「この町は新住民も温かく迎える町だよ」とおっしゃってくださったことを今でも覚えております。

 また、本来なら彩花は、障害児のための養護学校に通うところだったのですが、地域の中の学校に通わせたいとの思いから、小学校に通わせてもらっています。

 そして、小学校でも先生方に大変お世話になり、本日も私どもの申し出に快く体育館をお貸しくださいました。

 本当に多くの方のお力添えがあって、日々過ごすことができること、そして、この日が迎えられたことに対して、お礼を申し上げたいと思います。

 あと、保存会の方、地域の方、そして今日お集まりの皆さん、このような多くの方と巡り会えましたのも、もとをたどれば、彩花のおかげだと思っています。

 そして、今日の日がそれを再認識させてくれました。

 彩花は話すこともできない赤ちゃんのような状態ではありますが、心温かい方々に巡り合わせてくれる、そのような力を持っている存在なのだとつくづく感じます。

 最後に、今日お集まりの皆様には、引き続き、私ども一家を温かく見守ってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 ありがとうございました。

[HOME] [目次]