聖書真理ノート2
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28.H兄弟への手紙

   真理を受け入れることは祝福です。    
   神の真理に逆らって良いことはありません。    
   兄弟たちもよくよくお考え下さるようにお勧めしたいと思い、この度、お手紙を差し上げました。

              

                      ユダヤ人と異邦人はどこに?

エペソ2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の
中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、


1)上の御言葉から、

一人の新しい人=キリスト+二つのもの(ユダヤ人+異邦人)

とおおざっぱに定義できます。

2)さて、リー兄弟によると、この新しい人は現在、私たちの霊の中にもあると言われます。

                     私たちの霊

「霊の中で」という句はエペソ書では第一章を除けば、他のどの章の中にも出て来ます。あなたは私たちの霊の中には何があると認識しますか。あなたは主イエスと神の霊が、私たちの霊の中にあると言うかも知れません。それはもちろん正しいです。しかし今や私たちは、新しい人がまた私たちの霊の中にあることを見る必要があります。神の住まい、彼の住まわれる場所は私たちの霊の中です(2章22節)。予表では、エルサレムの古代の都は神の住まいでしたが、今日神の住まわれる場所は私たちの霊の中です。私たちの再生された霊は今日のエルサレムです。・・・ (エペソライフスタディM24より)


ここで、クイズを一つ。

   問、 では、ユダヤ人と異邦人はどこに居ますか?
   答、 ユダヤ人と異邦人もやはり私たちの霊の中に居ます。

                   ピンポーン?

そうです。1)から、新しい人の構成要素であるユダヤ人と異邦人も私たちの霊の中に居ます。これが正解です。
そして、私たちの霊の中にある新しい人はその霊でもあります。よって、ユダヤ人と異邦人はその霊の構成要素に含まれます。




ハレルヤ!H兄弟
ご無沙汰しております。御元気でお過ごしでしょうか。私は主の憐れみと恵みによって元気に生活させて戴いております。

 最初のクイズは、'99年9月 東京に在る教会の集会所で発表させて戴いた内容の要点です。その節は発表の場にご臨席戴き真に有り難うございました。

当時はどなたにも理解して戴けずに終わりましたが、この簡単な説明ではっきりと理解して戴けるのではないかと思いますが、H兄弟、如何でしょうか?

早いもので、あれから20年が経ちました。しかし、実のところ、私の確信は益々強化されているのです。上のクイズからも明らかなように、ユダヤ人と異邦人が私たちの霊の中に存在しておることは明らかです。このクイズだと幼稚園児でも正しく答えることが出来ます。 しかし、この問題の故に私は地方教会から総スカンを食らって今日に至っています。 ハレルヤ!御名に栄光がありますように!


一、「客観的な私たち」の論理はリー兄弟の認識に基づく

その霊の中に含まれるユダヤ人と異邦人とは、キリストの受肉の際にご自身の肉体の中に取り込まれた選びの民であるユダヤ人と異邦人のことです。この認識はリー兄弟のメッセージに基づいています。 リー兄弟のメッセージを引用します。

          キリストの死はいっさいの創造を包含する

キリストが肉体をもって十字架につけられた時、旧創造全体がその中に包含されました。なぜなら、創造のいっさいは彼の肉体に関係があったからです。ヘブル書第十章によれば、キリストの肉体は宮の中のたれ幕によって予表されましたが、その幕の上には生き物を象徴するケルビムが縫い取りされていたのです。こういうわけでキリストが十字架につけられた時、全被造物が彼と共にそこで釘づけにされたのです。なおまた、宮の中の幕が裂かれた時、ケルビムも裂かれました。これはキリストの肉体が十字架上に釘づけられた時、全被造物が釘づけられたことを象徴しています。これは十字架の聖書的理解です(エペソLSM24 p290)


彼の肉体の中に取り込まれた旧創造全体のうち選びの民である私たちユダヤ人と異邦人のことを私は「客観的な私たち」と呼びます。この「客観的な私たち」がエペソ2:15、4:23によれば今、私たちの霊の中に存在しておるのです。それが99年の私の発表の主たるテーマでした。
彼のライフスタディ・コロサイ人への手紙メッセージ27の始めの辺りでエペソと同様の事柄を次のように語っておられます。

キリストが受肉されベツレヘムでかいばおけの中に生まれた時、彼はご自身の上に人性を着られました。この人性はわたしたち並びに被造物のすべてを含みました。ですから、わたしたちが生まれる前にさえキリストはわたしたちをご自身の上に着られたのです。キリストが人の生活を通過された時、わたしたちは彼と共にそれを通過しました。さらに彼が十字架に行き、十字架につけられた時、わたしたちは彼と共に十字架につけられました。


二、いい所まで来たのだが、あと一歩の押しが足りない
つまり、リー兄弟は天のわたしたちと地上のわたしたちを同じ者と考えておられた。
「客観的な私たち」と地上の「主観的な私たち」との区別が出来なかった。


リー兄弟は続けてこう言われます。

それからわたしたちは彼と共に墓の中に葬られました。事実、被造物のすべてがそこに葬られたのです。ですから、キリストの墓は万有網羅の墓でした。わたしたちはまたキリストと共に復活し、そして、昇天しました。今や、わたしたちは教会生活にあずかっている間でさえ、彼と共にもろもろの天の中に座しているのです。一方において、わたしたちは地上の教会の中にあり、他方においてわたしたちはキリストの中でもろもろの天にいるのです。もろもろの天と教会との間に大量の交通があります。光の速度にもまさる速さで動く交通です。実はそのような交通に言及するのは人の見地からのことで、神の見地からするならもろもろの天と教会とは一つです。こういうわけで教会の中にいることはもろもろの天にいることです。

ここには、もろもろの天に座している私たちと地上に居るわたしたちとの間に大量の交通があると言われています。つまり天にいる私たちが地上に降(くだ)ってきていると言うのです。 このリー兄弟の発言は本手紙の末尾に掲載の図の中のどちらの図と関係があると思われますか。FIG1でしょうか、それともFIG2でしょうか。

FIG2(下の図)は三一の神だけが信者たちに分与されている図です。皆さんおなじみの認識を図にしたものです。
FIG1(上の図)は三一の神と共に「客観的な私たち」が共に信者たちに分与されることを示す図です。

そうです、上のリー兄弟の説明はまさにFIG1のことを語っておられるのではないでしょうか。天と地上との間の大量の交通に私たちが含まれているからです。 私はあの時この図の説明をしました。しかし、無言のうちに拒絶されました。
あなたがたは私のみならず、知らずにリー兄弟をも拒絶されたのでした。滑稽な話ではありませんか。

彼は1980年の初めか1979年の末頃にこのメッセージを解き放たれたと思われます(本ライフスタディ第一集の初版1980年3月から察して)。つまりリー兄弟はその時から20年も前に既に私が申し上げておるようなことを語っておられたということになります。この事は上のクイズからもお分かりの通りに確かに天の私たちが地上の私たちの所にやって来ているのが分かります。

リー兄弟はいい所まで来ておられたのですが、あと一歩の押しが足りなかったのです。つまり、リー兄弟は天のわたしたちと地上のわたしたちを同じ者と考えておられた。「客観的な私たち」と地上の「主観的な私たち」との区別が出来なかったのでした。非常に惜しい!


三、リー兄弟には 上なるエルサレム は三一の神と「客観的な私たち」を含む万物との結合またその霊であることが見えなかった。

聖書から他の実例をお話ししましょう。
ガラテヤ書に 上なるエルサレム というものが存在します。

ガラテヤ4:26 ところが、1上なるエルサレムは自由であり、それはわたしたちの母です.

旧契約と新契約との対比において、旧契約はハガルによって象徴され、現在のエルサレムにあたる、と言い、それに対して、新契約はサラによって象徴される上なるエルサレムであると言います。

リー兄弟はこの 上なるエルサレム について、フットノートにはこう言っておられます。

上なるエルサレムは、最終的に、新天新地における新エルサレムとなるでしょう(啓21:1―2)。そしてそれは、約束の契約と関係があります。彼女は、新約の信者の母です。新約の信者は、律法の下にある奴隷ではなく、恵みの下にある子です。私たち新約の信者はみな、上なるエルサレムから生まれました。そして、新天新地における新エルサレムにいるでしょう。(フットノート4:26の1)

これを読んで、H兄弟は上なるエルサレムが一体何んであるかお解りでしょうか?このフットノートから、それが如何にして存在するに至ったか、お解りでしょうか?

このフットノートにはそのような説明は全くありません。ただ、「上なるエルサレムは最終的に新天新地における新エルサレムになるでしょう」とか、「私たち新約の信者はみな、上なるエルサレムから生まれました」とかだけは言うことが出来ました。リー兄弟はただパウロの言葉をそのまま字面(じづら)を追っているだけで何の説明にもなっていません。「私たちの母です」、とか「エルサレム」という文字があるのですから、だれだってそれくらいのことは想像できます。つまりリー兄弟は上なるエルサレムがいったい何者であるのかは解っていなかったのです。

新エルサレムは三一の神だけでは構成されません。人々が存在しなければなりません。即ち、三一の神と選びの民、ユダヤ人と異邦人が存在しなければ新エルサレムは存在しません。ですから、その種である上なるエルサレムも同様に三一の神と選びの民、ユダヤ人と異邦人が存在しなければなりません。実はそれに加えて、万物即ち、全ての生き物たちも含まれるのです。(エペソ1:10、エペソ4:10、コロサイ1:19-20)

上なるエルサレムは三一の神のみならず、あのユダヤ人と異邦人なる選びの民、そして万物で構成されていなければならないということです。

これで、上なるエルサレムの中にあの「客観的な私たち」がいることがお解り戴けると思います。上なるエルサレム=その霊 が私たちの所にやって来ています。母親としてのその霊。そして、自由をもたらすその霊として。

ヨハネ3:6 その霊から生まれる者は霊である。
IIコリント3:17 そして主はその霊です.そして主の霊のあるところには、自由があります。


こうしてリー兄弟が言われる通りに天的な交通があるのがお解り戴けたと思います。

しかし、リー兄弟の認識によれば、その霊は勿論、手順を経た三一の神だけで構成されます。ユダヤ人と異邦人やすべての生き物たちは含まれません。ですから、リー兄弟は 上なるエルサレム がその霊でもあることを見ることはありませんでした。それ故、彼には上なるエルサレムが一体何者であるのか理解出来なかったのでした。

天的な大量の交通があるとしても、彼のその霊の認識はあくまでも、

その霊とは手順を経て究極的に完成された三一の神ご自身である。

でしたから、彼の上のメッセージとその霊の定義との間には矛盾があるのです。私は結果的に彼の矛盾点を修正して明確に定義付けを行ったのでした。
しかし、そのことがあなたがたの反発を招いてしまったのでした。皮肉な事です。
リー兄弟は後一歩の押しが足りなかったのでした。不肖私にリー兄弟を訂正する役目が回ってきたのでした。

四、神が私に真理を見せられる兆し

その霊の中にユダヤ人と異邦人を含む万物が含まれることは真理です。神の真理は受け入れるべきものです。神の恵みの結果であるからです。ここで真理と言いますと大げさな話で、リー兄弟の教えの一部訂正に過ぎない話なのですが、その霊に関わること故、敢えて真理と申し上げることをお許し下さい。

神が私に真理を示されるのにはある兆候がありました。H兄弟にお話ししたかどうか記憶にありませんが、私がまだ回復を見る2、3年くらい前のことです。'71年か'72年頃のことです。その頃私は神学校の学生でしたが事情で1年間休学して、母教会のある佐世保に戻っておりました。そのある日のことです。私はエレミヤ書33章を読み始めました。そして、3節に来た時です。突然ババーンとばかりにその御言葉がもの凄い勢いで私の目の中に跳び込んで来ました。私はビックリして叫びました。エッ、なんだ、なんだ、これは!? これまで経験したことのないとても不思議な出来事でした。その3節には次のように書いてありました。

わたしに呼び求めよ、
そうすれば、わたしはあなたに答える。
そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。


他の訳
【新改訳改訂第3版】
エレ 33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
【リビングバイブル】
エレ 33:3 わたしに尋ねよ。 そうすれば、この地に起ころうとしている、とても信じられないような不思議なことを教える。
【KJV】
Jer 33:3 Call unto me, and I will answer thee, and show thee great and mighty things, which thou knowest not.


その後、私は神学校に戻りました。奉仕教会は杉並区の堀ノ内にありまして、近くに妙○寺という大きな寺があります。日○宗の本山です。ですから、敷地が広い。また墓地も広いのです。私は日曜日毎に時間があればその墓地を行き廻りながら御名を呼んだり祈ったりしました。知らない間に「わたしに呼び求めよ」を実践していたのでした。

復学した神学校には聴講生の兄弟がおられて、彼からウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」を紹介され、読んで感動しました。主イエスが近くなったような感じがしました。霊的開眼の始まりでした。'71年頃のことです。

そのような経験があってから、およそ27年後、'97、8年頃リー兄弟がお亡くなりになる前後のことですが、リー兄弟のエペソのライフスタディの教えの中に疑問を感じるようになったのです。その最初の大きな問題点がその霊の構成要素の問題であったという訳です。それを皆さんの前に発表する機会を得ようと願い、吉田兄弟にはかなり無理なお願いをして、あのような場を設けて戴いたのでした。吉田兄弟とはそれ以前にこのテーマを手紙で議論致しておりましたことは貴兄もご存知でしょう。

使徒行伝4:19 ところが、ペテロとヨハネは彼らに答えて言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の目に義しいかどうか、判断していただきたい.
4:20 わたしたちは自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいきません」。


私は文字通り、この弟子達の心境でした。自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかなかったのでした。そして、発表の内容は皆さんの理解を越えた大いなる事(新改訳)でしたので誰にも信じて貰えませんでした。しかし、私の内側には確固たるものがあって今も打ち消すことは出来ません。真理の真理たる所以です。添付のFIG1とFIG2ですが、あれは'99年9月発表当時のままです。

五、結論

真理を受け入れることは祝福です。神の真理に逆らって良いことはありません。兄弟たちもよくよくお考え下さるようにお勧めしたいと思い、この度、お手紙を差し上げました。

父なる神と救い主イエス・キリストに栄光と誉れがとこしえまでもありますように。
アーメン!

主の
2019年3月○日
東 信男


図の説明:
FIG2 従来の理解: その霊に関する一般的な理解です。
この図には二つのラインがあります。左側のラインはキリストと「客観的な私たち」との結合を表します。右側のラインは最後のアダムが命を与える霊となったことを示すラインで「客観的な私たち」は含まれません。そして、二つのラインの間には関連性がありません。

FIG1 新しい理解:
FIG2 の二つのラインが一つに合わさったもの。即ち、その霊の中に「客観的な私たち」が含まれています。この理解こそがその霊の正しい理解です。

2019/03/21
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009☆gmail.com